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【微ネタバレ】「葉桜の季節に君を想うということ」「イニシエーション・ラブ」のまとめて読書感想

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)
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イニシエーション・ラブ (文春文庫)
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今回は直接本題に入るには色々問題があって、前置きが長い。でも読んで欲しい。

ある時急に、叙述トリックというジャンルに手を出そうと決意した。

この一文を読んで、(もしこのブログを前から読んでくれている方がいれば)前回の感想を思い出してくれた方もいるかもしれない。そう、前回は、「謎が解けた瞬間に世界が変わる快感」について書いていたのだった。しかし、その体験があって叙述トリックに興味が沸いたかというと、実はそうではない。
実は叙述トリックに関しては、その前から少しだけ知識があったのだ。頭でっかちな私はネットでせっせと知識を漁り、「叙述トリック」という名前のトリックの分類があることや、その説明を把握し、「該当作品を全く読まずに」それがわかった気になっていた。
それで満足してしまったのだろう。ある時期までは頑なに該当作品を読まなかった。
読んでみたいという気も確かにあったはずだが、何故だか一向に食指が伸びなかった。今となってはその理由は全くわからない。その内、当時の心理状態を解き明かしてみたいとは思っている。

何故かは知らないが、急にこの2作を読む気になった。
ここからの話は少しネガティブになる。
私は自分のブログで我慢はしたくないので、言いたいことは言ってしまうことにする。叙述トリックが大好きな方はどうか許して欲しい。

この2作を読んだ今、叙述トリックに対して抵抗がなくなったかと言うと、
むしろ、以前よりも読みたくなくなった
というのが正直な心情なのである。

前置きはこの辺にしておこう。ここまで読んで「読む価値もない」もしくは「なんかネタバレをされそうだ」と思った方は、非常に残念だが、もうブラウザバックしていただいているとは思う。だからこの先はそういった方には遠慮せず書く。まあ、読んでいない方にトリックがわかるような重要なネタバレをする気はないが、この感想がヒントになってしまうことは確かだろう。

この2冊は、叙述トリックの名著として、たびたび色々な場所で名前を挙げられる作品である(厳密には、あともう1~2作ほどその手の作品がある)。
叙述トリックとは、「読者のみに向けて用意されたトリック」の総称である。具体的には、地の文における曖昧な描写や人称、幅広く解釈できる台詞、章の変わり目に存在する時間的ギャップ、視点以外の場所での動き、その他もろもろの「描写されない部分」に重要な情報を埋め込んで、「嘘は書かない」というルールを満たしながらも読者を騙すことを成立させる。地の文などの描写(=叙述)がトリックの主な仕掛けになっているから、作中人物にはそのトリックは意味を成さない。つまり、読者だけが騙される可能性のあるトリックなのである。逆に言えば、作中人物がそのトリックに引っかかる場合、それは叙述トリックではないと言っていい。

私は「叙述トリックがある」という情報を持った上で、この2作品を読んだ。
さらに、叙述トリックに関する一般的な解説をよく調べた上で、それらを意識しながら、読んだ。
順番は、「葉桜の季節に君を想うということ」→「イニシエーション・ラブ」である。結果は1勝1敗。「葉桜~」は種明かしに至るまでトリックに気付けず、「イニシエーション・ラブ」は相当早い段階でトリックの全貌に気付けた。

まず、「葉桜~」を読んだ時の感想。
非常に悔しかった。
種明かしを受けた時の、そんなことがあるか、という衝撃と、物語の全てが塗り変わる快感。そして、全編を読み返して、全く嘘をついていないということにあらためて驚愕し、何故気付けなかったと悔やんだ。
「その」トリック自体は、叙述トリックの一般的な解説を読んで知識としては知っていたはずなのに。全く、思いつけなかった。
この時、初めて叙述トリックの凄さを体感したといえる。やはり知識として持っているのと、自分で体験するのは何もかも違う。
これによって、私は叙述トリックの魅力にハマった。
絶対に次は見抜いてやると誓った。
そう、確かにこの時、一度はその魅力に完全に引き込まれたのだ。

それを打ち壊したのが「イニシエーション・ラブ」だった。
しかし、勘違いしないで欲しい。「イニシエーション・ラブ」という作品は、全く悪くない。むしろ素晴らしい作品だ。
ただ、「叙述トリックを2作品読んだこと」が、そもそも間違いだったのだ。

私は「葉桜~」のトリックを見抜けなかったことが相当悔しく、「イニシエーション・ラブ」は全てを見逃さない覚悟で読んだ。
それこそ、登場キャラの情報は全て「明示されていること」しか信用せず、はっきりと示されていないのに勝手に思い込んでいるデータが少しでもないかと目をぎらつかせ、頻繁に頁を戻しながら読んだ。
ものすごく時間がかかった。
最初は電車で読んでいたが、到底読み続けられず、喫茶店に移動して集中して読んだ。
そして、「そのトリック」が発動するや否や、疑いをつけた。
元々「目次」を見た時点で怪しいと思っていた部分ではあった。
そして最初の伏線が張られたタイミングで、確信を得た。

ついに私は、叙述トリックを見抜くことができたのだ。

全く、達成感はなかった。
ひどく疲れた。
こういう風に読むもんじゃない、と心底思った。

しばらくの内は、それでも「作者に勝った」ことが嬉しかった。
「イニシエーション・ラブ」は文句ない出来の小説だった。物語と叙述トリックが密着しており、トリックを解くことで物語全体の意味すら反転する恐ろしい構造を持っていた。
加えて「葉桜~」を読んだ時の興奮も残っており、叙述トリックに対する私の印象は相当よかった。

叙述トリックはミステリの新境地だ。
今まで切り込めなかった場所に考える余地を置いて、読者に聖域を与えず、より本質的な作者との対決をさせることができる。
そう思っていた。
3日経って、冷静になって、私の立場は反転した。

叙述トリックは決して褒められたトリックじゃない。
フェアか、アンフェアかという巷の論争に参入するつもりはない。
トリックとしては完全にフェアだ。しかし、それとは関係なく、それ以上の問題が起こっている。これはミステリとしての、いや、小説としての面白さの問題であると思っている。

私は「葉桜~」に騙され、叙述トリックとは「行間」に潜むトリックであることを身を持って実感した。
小説には、物語のあらゆることが描かれるわけではない。
章と章の間。文と文の間。設定と設定の間。
なんてことのない描写の中にも、必ず省略されている箇所がある。それは本読みには「行間」と呼ばれる。行間を読むことが、物語を読むための基本技術と言っていい。
私は叙述トリックを完璧に読み抜くつもりで、「イニシエーション・ラブ」を読んだ。
その結果、私は全ての「行間」が信じられなくなった。
主人公の性別。年齢。職業。身長。体重。家族。暮らし。
書かれていないことは、何一つ決め付けてはならない。いくら「それっぽく」見えたとしても。
しかし、全ての情報が書かれている小説など、有り得ない。
主人公はこの後家に帰ったか。学校に行っているか。トイレには行ったか。呼吸はしたか。健康か。ペットはいるのか、いないのか。そもそも、こいつは本当に人間か。生きているのか。妄想ではないのか。多重人格ではないのか。
時系列は本当に繋がっているか。この文から次の文の間にギャップはないか。途中で視点が変わってはいないか。目の前の人物が変わってはいないか。場所が移動していないか。
舞台は日本か。地球上のどこかか。そもそも現実世界を模した舞台なのか。魔法はないのか。超能力はないのか。宇宙人ではないか。未来人ではないか。異世界人ではないか。

そう、全てを疑えば、キリがないのだ。
小説は、そういった、無数の「暗黙の了解」によって支えられている。
行間を読めなくなった小説は、崩壊する。
実際この「イニシエーション・ラブ」のことを、「トリックは凄いが内容は陳腐な恋愛小説」とする評価もある。それは冷静に見れば的外れな批判だ。恋愛小説として読むと、確かに何の変哲もないストーリーかもしれないが、それでも描かれる心情の動きは面白い。
ただ、これをミステリとして読むと確かにそうなる。
トリックを見抜こうとするほど、「行間」の味わいが消滅していき、何も感じることができない小説になる。
だって、心情の動きなんて「行間」にしか書いていないのだから。

叙述トリックに対する私の読書姿勢は、およそ理想的な読み方とは正反対の、読書の味わいをことごとく叩き潰すものだった。
しかし、相手が叙述ミステリである限り、この読み方を放棄することはできない。
なぜなら、ミステリは本質的に、作者と読者との対決だからだ。
作者が挑戦状を叩きつけ、読者がそれを受ける。はるか昔から、本格ミステリとはそのように定義付けられてきた。
であれば、作者が(あるいは出版社が)これは本格ミステリだと言って叙述トリックを叩きつけるなら、読者は全力でそれを読み解くことから逃れられない。
ならば、もう、仕方が無い。
叙述トリックは好んで読まない。
小説を読むことの面白さを損なわないためには、そうするしかないのだ。
もちろんこれからミステリを読んで、たまにはそうと知らずに叙述トリックに出くわすこともあるだろう。しかし、それならそれでいいのだ。
叙述トリックと気付かなければ、ひどい読み方をする必要も無い。爽快に騙されて、悔しがることができるのだ。
その時私は、叙述なら叙述と言ってくれとか、アンフェアだとか、言い出すかもしれない。
しかし、「イニシエーション・ラブ」を読んだ時の、あの台無しな読み方よりはどうしたってマシだと断言できよう。


(蛇足)
ちなみに、私は個人的にこの2作を、「本格ミステリ」だとは思えない。
巷ではそう呼ばれているのは知っているが。
というのも、この2作は「解くべき謎」を作中に全く明示していない。叙述ミステリの性質上、それは当然のことだが……。もしミステリと言われずにこれらを読めば、最後に種明かしを読むまでとてもミステリとは思わないし、謎があることすら全く気付かないだろう。それをミステリと呼べるのか?作者と読者の勝負といえるのか?
まあこの辺りはまた別の複雑な話になりそうなので、ここでは別件としておいておく。
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