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算数/数学の授業は、抽象化のステップアップである

数学というのは、「抽象化」の学問だ。
この辺は、たとえば大学で数学科に行ったような人間なら誰でも感覚的にわかっている。
逆に、これが掴めなかった生徒が数学嫌いになってしまうわけだが、さらにたちの悪いのは、教える側の人間ですらこのことを把握していないことだ。
教える側ともなれば、感覚的どころではなく、言語化できるくらいこの感覚を磨かなければならないと思う。それは、小学一年の「さんすう」から既に始まっている。小学校教師は特に、主に文系である教育学部や教育大学出身でないとなれないから、この辺の齟齬が大きいのだろう。
そこで今回、算数/数学という授業について思っていることを、「抽象化」を中心にすえてぶちまけてみる。

小学校入学前


そもそも「抽象化」というのは、人間が人間として生きていく根幹をなす能力である。
たとえば「いないいないばあ」という遊びがある。
ある段階までの赤ちゃんは、いないいないばあをすると本当にその人がいなくなってしまったように感じるという。しかし、生後7-9ヶ月で、赤ちゃんは「物の永続性」を理解し、「見えているお母さん」と「手で隠れているお母さん」が同一であることを知る。これは「お母さん」という存在・実体をある意味で抽象化したからであって、私はこれを人間が始めて獲得する抽象化能力だと考えている。
さらに約2歳になると、子供は「表象」という概念を獲得する。今見ている相手を言葉やイメージ、概念で理解し、後日になってそれを模倣したり、説明できるようになる。さらには記号などのシンボルを理解したり、おもちゃを使って遊んだりできるようになる。これらはまさに抽象化能力の訓練である。ひとつひとつの「具体的な実体」をそのまま飲み込むのではなく、いったん概念として切り分け、理解しなければこれらの遊びはできない。「自分ではない人間になりきる」ごっこ遊びなどは、とてもわかりやすい例だ。

ところでここで、既に算数の第一歩が現れている。
たとえば「つくえ」という言葉を子供が理解する。これは、自分の家のリビングにあるテーブルも、食堂にある食卓も、和室にあるこたつも、お母さんに連れて行かれた病院に置かれた机も、全て同じように「つくえ」と呼ぶことを理解したということだ。
何かしら天板が合って、それを足で支えていて、上に物を置いたり作業したりする物ならば、大きさや材質に関わらず「つくえ」なのだという概念を得たということだ。
まさにこれは算数、ひいては数学の考え方のもとになるものである。
ここまでさんざん「抽象化」という言葉を使ってきたが、ようするに今のように、様々な具体的なものを共通の概念に落とし込むことを「抽象化」と呼ぶのだ。
0.png


小学校1年生


ここで始めて、「数」という概念を習う。
「数」は、5-6歳の児童が習うとは思えないほど、高度に抽象化された概念だ。
先ほど「つくえ」の例で説明したように、子供はこの時点で、様々な「具体的実体」を共通するイメージに落とし込んで理解している。
材質や大きさに関わらずどんな机も「つくえ」だ。同じように、多少の色や形の違いに関わらずどんな林檎も「りんご」だ。言葉という抽象化は、ここまでで終わる。「つくえ」と「りんご」を一緒にすることはない。
しかし、「数」はそれらを、さらに共通するイメージに落とし込む。
数の考え方は、「つくえ」と「りんご」すら一緒にしてしまう。どちらも同じように、「ひとつの塊がある」という風にしかとらえない。このようにして「1」という数のイメージが取り出される。
そして、「ふたつのつくえ」と「ふたつのりんご」も一緒だ。どちらも「ふたつの何か」である。これを抽象化して、「2」という数が取り出される。
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考えてみれば、「2」などという名前の「物体」はどこにもない。「2」は概念の中にしかなくて、人間がふたつの机やふたつの林檎を見たときに、勝手に「2」という数を感じ取るだけだ。
そしてこの数という概念は、恐ろしい進化を遂げる。何も「ひとつの何か、ふたつの何か」という「塊的なイメージ」だけで済む問題ではない。糸を巻きつけて「1周、2周」と数えるのはどうだろうか。「1秒、2秒」はどうだろうか。果ては「1リットル、2リットル」なんてものも登場する。
「順番に区別することのできる何か」になら何にでも、数は広がってしまう。

この辺のことを、驚くべきことに子供たちは感覚的に理解してしまう。大半の子は。
しかし、この時点ではまだ具体物で考えないといけない子もいる。3人の男の子と2人の女の子、合わせて何人でしょうと言われて、実際に男の子と女の子を並べて数えなければわからないのが「数を抽象化できていない子」で、指を3本と2本折って数えられるのが「数の抽象化ができた子」で、3+2=5と何も使わずに計算できるのが「数のイメージが完璧に染み付いた子」である。
最終的には、全ての子供が最後の状態にならなければならないのだが、そうなれないまま次のステージに進まされてしまう子が存在する。これが悲劇の始まりだと思う。

小学4年生~6年生


子供達が算数で最初に躓くのが、「分数」の計算だ。
実は、この時点で、数のイメージを完璧につけていない子は、脱落してしまう。
抽象的な対象であるはずの「数」という存在を、ほとんど「具体物」のように身近に感じられる子だけが、次のステップへ進める。
たとえば、12÷3=4という式を見て、「12個のみかんを、3人に配ると、ひとりぶんは4つ」というような具体的イメージでしか捉えられないようではこの先が厳しいのだ。
いわゆる「できる」子は、4×3=12という式のイメージとともに、この式を見る。
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そう、式のイメージ、だ。もはやそこにみかんもおはじきもない。
これができているかどうかで、分数の割り算に対する捉え方が違う。
たとえば、1/3÷1/2という式。これを、「常に具体化して理解する子」が見ると、「1/3個のみかんを、1/2人に分けると・・・?」となって、滅茶苦茶なイメージになる。
一方、「数を数のままで」捉えられている子は、1/3÷1/2=??×1/2=1/3と読み直せて、多少苦労はするものの、「1/2に何を掛ければ1/3になるだろうか。逆数である2を掛けるといったん1になる。だから、それと1/3を掛けて、2/3が答え」という教師の説明が飲み込めるのだ。

この辺り、指導要領などを見ると、常に具体的イメージに戻って理解させるようになどと書いてある。
確かに具体例は大事だ。大事だが、それに根っから寄りかかったような理解をさせることは危険でもある。
非常に残念なことだが、分数の割り算などをしている段階で、具体例に依拠しなければ理解できない子供は、はっきり言って手遅れなのである。
分数の計算が難しい、わからないと言う子は多い。ここで算数が駄目になったという大人も多い。だがそれは間違いだ。実は、小学校1年生以来ずっと訓練されてきた「数のイメージをつける」作業が遅れて、それが初めて限界を迎えるのが、分数という段階なのだ。
そういう子は、足し算引き算に掛け算、筆算など、順調に学びを進めているように見えていたかもしれない。それが突然分数で躓いたように見えるかもしれない。でも、本当は何も順調ではなかった。数のイメージをつけることなく、そこまで「進めてきてしまった」のが実情なのだ。それが初めて目に見える形で飛び出しただけなのである。いわば、分数の計算はそれができているかを確認する最初の試金石として働いてしまっている。

指導要領には、割り算を理解させる為に、包含除やら等分除やら、難しい言葉がさんざん並んでいる。それは割り算を具体的な形で理解させる為には確かに必要な概念だ。
しかし、忘れてはいけない。それはあくまで具体的に理解させるための方便だ。
割り算の本質は、「掛け算の逆演算」だ。それ以上でも以下でもない。包含除だの等分除だのとどれだけ並べようが、それを覆すことだけはできない。
そしてその本質を理解するには、具体例は、どちらかと言えば邪魔なくらいなのだ。
方便は使えばいい。具体例なしに割り算を理解させよなどと鬼みたいなことは言わない。むしろ必要だろう。しかし、いつまでもいつまでも具体例に頼ったままでは、いつまで経っても抽象化のステップを上がれない。算数を教える者は、具体例という呪縛から逃れる時機を、常にうかがっておかなければならないと思う。

中学1年生


このあたりで、「抽象化のステップアップ」という考え方が真に大事になってくる。
数学とは、抽象化のレベルを順次上げていく学問だ。ただ一回抽象化すれば終わりではない。一度抽象化したものをまた抽象化して、それをまた抽象化して……このように、数学という学問は続いていく。
しかしこれは中学1年で突然始まることでもない。
今までだって、抽象化のステップは順々に上がってきた。
最初は、様々な別の机を「つくえ」という言葉で表した。
次に、「つくえ」と「りんご」をまとめて数という考え方で表した。
そうすると今度は、「数そのもの」をイメージ化して掛け算や割り算を共通イメージに落とし込んだ。
中学では、これがもっともっとわかりやすい形で進むだけだ。
文字式である。
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ここで大事なのが、文字式を学ぶに当たって、もはやりんごやみかんまで戻っている余裕はないということだ。
中学の教師も、よく、具体的に考えよう、と言う。しかしこの場合の「具体的」とは、決してりんごやみかんのことではない。xやyといった文字の中に、1や2といった具体的な数を入れましょうという意味だ。
ここではもはや、「数」は「具体物」であるかのように扱われる。これは非常に重要な点だ。抽象化の段階を登るためには、その時点で前回の抽象化の結果を、「具体的なもの」として受け入れている必要があるのだ。
割り算の式を与えられていちいちみかんを分けて考える者は、文字式の割り算を理解することはできないだろう。
前の抽象化段階を具体例として、それを足場に、新たな抽象化を獲得する。これが数学の基本的な流れなのだ。
だから、小学校の時点で数のイメージがつけられなかった生徒は、文字式で振り落とされてしまう。
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よく、数学は積み重ねの教科だといわれるのはそのためだ。
一回でも抽象化のステップアップをサボれば、絶対にその次のステップアップにたどり着けない。これが数学の難しい点である。

高校


もう、おわかりだろう。
高校数学を理解する、すなわち、高校における抽象化の段階を登るためには、中学時代の数学を足場にしなければならない。
もっとはっきり言えば、文字式を具体例として、関数を理解する必要があるということだ。
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この時点で関数f(x)を理解するためにりんごやみかんに戻る者はもういないと思うが、だからと言って数式で戻るのも止めても、既に戻りすぎなのである。
本当は、文字式で踏みとどまらないといけない。文字式が具体例として運用できる頭にしておかねばならない。そのためのイメージを、中学時代につけておかなければならないのだ。

この先も、もし大学や大学院で数学を学ぶなら、まだまだ抽象化のステップは続いていく。足し算や掛け算などを「演算」という大きいくくりで見て研究する群論や環論があり、それら群や環をさらにまとめた圏があり、圏と圏の繋がりを調べる関手があり。私はこの辺でギブアップした。
もちろんここまで意識しろとは決して言わないが、少なくとも算数/数学を教えるに当たって、抽象化という考え方を全く把握していない教師は問題だろうと思える。
具体例はわかりやすいし、教えやすい。けれど、いつまでもそれに依拠する教え方は、いずれは抽象化のステップアップを迫られる児童・生徒たちにとっては結果的に害になるということを、どうかわかってほしい。
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