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「自由」の意味は4段階あると思う

「自由」とか「不自由」という言葉についてちょっと考えてみる。
以下は私個人のとりとめもない主張を適当にまとめただけのものなので、そういうのが苦手な方は読まないか、イライラを覚悟して読むことをオススメします。


“人間はどの程度自由なのか。”
まずはこの疑問に答えてみたいのだが、私が思うに、この「自由」には様々な解釈があって、ざっと次のような意見に分かれると思う。

①物理的な「不自由」
例えば、我々はジャンプして東京タワーの頂上に登ることはできないし、100m走のタイムには限界がある。そして、今のところどんな道具を使っても未来や過去に移動することはできない。
ある種の病気は治せないし、永遠に生きることもできない。
そういう意味では、我々は全然「自由」ではないということができる。

②物理法則下における「自由」
ところが、そういった物理法則によって制限されていることを前提としておくと、我々は本質的に限りなく自由ということもできる。「物理的に可能なことならば、何をすることもできる」というわけだ。
例えば、私は人を殺すことも「できる」し、スーパーに行って食料品を万引きすることも「できる」。大切な人に冷たい言葉を投げかけることも「できる」し、ビルの屋上から飛び降りることも「できる」。ここでいう「できる」というのは、「その能力がある」という意味だ。
物理的に不可能でないのに、誰がその行動を制限することができようか。たとえば殺人が刑法で禁止されていようと、それを認識した上でそれでも人を殺すことは実質的に「自由」だということもできる。

③法的な意味での「禁止」
法律で禁止されていることは不自由にあたる、という考え方は一般的だろう。ここでは、「権利」=自由、「義務」=不自由、と言いかえられる。
しかし、私はこの考え方はかなりナンセンスだと思っている。理由は後述。

④精神的な「不自由」
「物理的に可能である」ことと、「精神的に可能である」ことは違う。精神的に不可能であることは不自由に数えていいのではないか。
例えば、私は屋上から飛び降りることができるが、実際にはそれをやりたくない。これは単に私が「飛び降りないことを選択している」ということもできるが、もっと厳しく「私自身の精神的束縛によって飛び降りることが不自由である」と言ってもいい。
あるいは私はスーパーで万引きすることができるが、実際にはやりたくない。捕まるのが嫌だからだ(おそらく、日本に窃盗という罪が存在せず、万引きに何の罰則もなければ私は万引きすると思う)。この場合、私は「万引きのリスクとリターンを比較することによって万引きしないことを選択した」と言うこともできるし、「捕まりたくないという精神的束縛によって万引きが不自由になった」と言ってもいい。
どちらの意味でとるかによって、人間は不自由なのかという疑問に対する回答は全く異なってくる。
(余談だが、刑罰というのはそもそもこのような精神的束縛を誘導して、社会的に望ましく無い行為を抑制しようという原理である。だから刑罰による不自由はあくまで④の範疇内であり、前述したように、刑罰による不自由をそれ単体で分けて考えるのはナンセンスだと思う。)


思うに、大概の人が自由と不自由について悩む時、これらの様々な形態の自由の中で揺れているのではないのだろうか。
例えば、ある子供が友達と遊びたいのだが、親に「夕飯までに宿題をしなさい」と言われる。この子供は強く不自由を感じることだろう。しかし、物理的には、この子供は親の言うことを聞かずに遊びに行くことが「できる」。宿題をしないことが「できる」。後で親や先生にこっぴどく叱られるというだけで。
ところが、この子供はこっぴどく叱られることを嫌がり、宿題をすることにした。この行動は、「叱られる」リスクと「遊びに行く」リターンを比較し、自分にとってより望ましいと思われる方を「判断し、選択した」だけだ。つまりこれは、全く自由な選択の結果なのである。
ここまでが②の考え方だ。
これを④の考え方に変換すると以下のようになる。
この子供は遊びに行きたいという願望を持っていたのだが、その行動には親によって「叱られる」という(絶対に避けたい)リスクを付加されてしまった。これによって、子供自身の精神的束縛により「遊びに行く」行動が不可能になってしまった。子供が宿題をしたのはこの結果であるから、不自由であると言える。
あるいはこうも考えられるかも知れない。
この子供にとって最も望ましい結果は、「遊びに行けて、かつ叱られない」ことである。しかしそのためには、「遊びに行き、かつ夕飯までに宿題を終える」必要がある。これは物理的に不可能だ。つまり①の意味で不自由なのだ。

どうだろうか。考え方ひとつだけでこうまで自由と不自由の意味が変わってしまう。
もし私がこの例のような相談を受けたら、大概は「親を説得してみたら?」というアドバイスをしている。
宿題は夜でもできるが、友達と遊ぶことは夕飯までしかできない。宿題は必ず夜にやり遂げるから今遊びに行くことを許可してくれと。
こうすれば、最も望ましい結果である「遊びに行く」ことと「叱られない」ことを両立する結果が得られることだろう。
ただ、このようなアドバイスをするとしばしば言われるのが、「説得するのがそう簡単ではない、抵抗するのが怖い、言いくるめられてしまう」という反論だ。
私はそれでも相手が納得するまで粘り強く説得を試みればいいと思うのだが、どうもそういう問題ではないことがわかってきた。
この子供にとって、「親に抵抗する」こともリスクのうちなのだ。
つまり、本当は「遊びに行く」かつ「叱られない」かつ「親に抵抗しない」の3つを両立させたい。でも、それは不可能だ。だから不自由だ、と言うことなのだ。

これは①の意味での不自由だ。物理的というか、論理的にそれを成立させることはできない。
私が思うのは、こういうときに①の意味や④の意味で不自由を感じて憂鬱になってしまうなら、自分自身の頭を②の考え方に切り替えてしまえばどうか、ということだ。
望む3つを両立させることは物理的・論理的にできない。だからそれは前提として除外する。
その上で、物理的に可能な様々な選択肢がある。無理やり遊びに行くのもあり、諦めて宿題をするのもあり、親の説得を試みるのもあり。
それら一つ一つについて、リスクとリターンを考慮して、どの程度望ましいかを判断していく。その中で最も望ましかった選択肢を、「自分自身の自由でもって」選択する。
そのように考えれば、自分はなんて不自由なんだと辛くなることも無いんじゃないかな、と思う。
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