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【微ネタバレ?】「ライオンハート」の読書感想

ライオンハート (新潮文庫)
恩田 陸
新潮社
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いつもあなたを見つける度に、ああ、あなたに会えて良かったと思うの。いつもいつも。会った瞬間に、世界が金色に弾けるような喜びを覚えるのよ。


物語で目が潤んだ経験は、数えるほどしかない。
本当に数えてみたら、たったの6回だった。

最初に感想を書いた、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』。
BUMP OF CHICKENの『車輪の唄』の歌詞。
『ワンピース』の、メリー号が燃えるシーン。
ボカロ曲の『サイハテ』。
涼宮ハルヒシリーズの二次創作SS『鼻歌とチョコレートケーキ』。

そして、この『ライオンハート』。

この内5つまでは、私の胸を突き動かしたものがなんだったのか、はっきり説明することができる。それは悲しさであり、寂しさであり、切なさである。
簡単に言えば、どれも別れの物語であり、別れの余韻を描いた部分に私は弱かった。
余韻の中に思い出が詰まっていて、感情が詰まっていて、そのひとつひとつの走馬灯を私自身が一緒に追ってしまう感覚に弱かった。
最後に同時にいられる瞬間に、「ありがとう」「幸せだった」と言って笑顔で未来へと歩き出すようなシーンに弱かった。

しかし、最後のひとつ『ライオンハート』だけは、自分自身何に感動したのか、さっぱりわからなかった。どのシーンのどの一行が胸を突いたのかと言われれば、どうもそのようなシーンがない。強いて言えば、冒頭に掲げた一節であったり、次の台詞は印象に残り続けている。

いつも、うれしかった。
覚えて、いてね。
わたしのエドワード。わたしのライオンハート。


しかしこれらは第一章にあたる箇所に出てくる、かなり序盤の台詞なのだ。もちろんこの箇所を読んだ瞬間に急に胸が締め付けられることもなかった。
最後まで読み終わってみて、何と言っても伝わらないような強烈な読後感に襲われて、それからしばらくしてこの2つの台詞がふっと頭に立ち戻ってきたのだ。そして、なんだかわからないままに私の目は潤んでいて、この台詞を一生忘れられなくなった。
それが、この本に対する一度目の、私の読書体験の全てである。

この本は母親からの借り物であった。そこで、私はもう一度この本を借りて読むことにした。読書感想を書くなら遅かれ早かれこの本は欠かせないと思ったからだ。
やはり再読は凄い。プロローグから既に感動が襲ってきた。

この本は、5つの短編と、それに付随するプロムナードと呼ばれる小編と、2人の男女で構成されている。
5つの短編は時代も国も、物語としての形も全く異なるばらばらなものだ。けれども描かれるのは常に同じ男女。エドワードと、エリザベス。
2人は若い男女であったり、老齢であったり、片方が少女だったりするし、生まれも境遇も様々ではあるのだが、「同じ」エドワードとエリザベスである。生まれ変わりのように、あるいは先祖返りのように、別の時代の記憶をフラッシュバックさせながら人生を歩む。時にはその時点より後の時代のエドワードや、自分自身の未来の記憶を見ることさえあり、単純に一本の線で結べるというわけでもない。
5つの短編に唯一共通するのは、2人が出会うということ。それだけだ。
2人が長い年月をかけて、一度だけ出会って、そして別れて、その短編は終わり。
『ライオンハート』は、言ってみれば、それだけの物語なのだ。
でも、それだけの部分を、何よりも壮大で、美しく、羨ましく、運命的に、そして切なく書く。

向き合って立っている二人は、一幅の絵というよりも、神話の彫刻のように見えた。
「エドゥアール、あなたなのね。今度もまた会えたのね」
娘は感きわまった表情で青年を見上げた。青年も、ただひたすら無言で彼女を見下ろしている。
「やっと、会えた。私のエリザベトに。何年も待っていた」


初読のように目が潤むまではいかなかったが、胸を締め付けられるような切なさは健在で、逆に冷静になった私はようやく、この本にこうまでも気持ちを動かされる理由を見つけることが出来た。

この物語は、生きる意味を描いている。

この本を読んだ時、私は大学生になったばかりだったはずだ。その年代によくあるように、私は生きることに不安を持っていたと思う。何のために生きるのか。死んだら何が残るのか。とりあえず人生を進んで、最後まで生きて何があると言うのか。今死ぬのと後で死ぬのと何が違うのか。
そんな私にとって、この物語は強烈と言うどころのものではなかった。
エドワードの人生は、誇張でもなんでもない「人生の全て」は、まさに「エリザベスに出会う」、本当にそれだけのためにあるのだ。
出会ってしまったら、それで終わりだ。
でも、その「出会う」一瞬が、それまでの人生を何百倍にもしたような「金色の喜び」で満たされるのだ。
エドワードにとってはそれで十分であり、それが生きる理由。生きる価値なのだ。
これが私には物凄く鮮烈で、強烈だった。そういうふうに生きる意味を与えられることが羨ましかったし、憧れたのだ。だから最初に挙げた2つの台詞ばかり印象に残っていたのだ。

将来の夢なんて大層なものはなくてもいい。そこそこの夢をかなえて、そこそこの暮らしに満足して、少数の大切な人を作って、手の届く範囲の幸せを追えばいいじゃないか。

昭和のビッグドリームな時代が終わって、このタイプの考え方が平成の主流になった部分はあるだろう。私も、そちらの人間と言える。
それを、大人の社会は否定する傾向にある。もっと夢を持て。生まれてきた以上使命がある。
それは私にはどうしてもわからなかった。社会を良くするとか、そういう方向に生まれてきた意味があるようには到底思えなかった。
その中で目の前に現れた『ライオンハート』は、どちらの考え方とも微妙に違った。

世界にたった一人だけいる大切な人を見つけて、その人と出会う。それを人生と呼ぶ。

そんな感じだった。
私はこの強烈なシンプルさに胸を打ちぬかれたのだろう。
当時はそんな風には分析できていなかったが、それが染み込むように入っていったのだ。
それが理由なのかは知らないが、この本を読んだくらいの時期から、考え方が変わって妙に生きやすくなったのは覚えている。

私も、『その人』を人生と定義しよう。
その人生を最後まで進んでみよう。
今はそう思っている。
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