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「中世ヨーロッパ風の街並み」的描写に大賛成な私の意見

こちらを読んだ。

俺は、せっかくだから〈side ○○〉〈side out〉形式の小説を擁護するぜ - 『中世ヨーロッパ風の街並み』は究極の情景描写?

Question:“中世ヨーロッパ風の街並み”という描写はダメ(具体的には手抜き)なのか。
(略)
異世界小説のなかでも、情景描写ではなくストーリー展開や、キャラクターの心理描写などに重点を置く種類の小説であれば、街並み描写を『中世ヨーロッパ風の街並み』で済ませてしまうのは、手抜きではなくある種の見識である。
少なくとも『中世ヨーロッパ風の街並み』という“情景描写”があったからといって、それが単なる安易さを示すものだとは言い切れないし、作品全体の構成という視点から考えて、そのような“描写手法”がむしろ最善手である場合もある。



この方の意見には全面的に賛成である。
ところが、このエッセイに対して次のような反論のコメントがあった。

3人称の地の文で「その町並みは中世ヨーロッパ風だった」って書かれても、幅が広すぎて何も描写していないように思えます。
「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」とか「赤いレンガで覆われた家々が軒を連ねる町」って書くと想像の幅が狭まって良いと思うのですが。



これを読んで、私は、「発想が全く違う」と驚いた。

私は、描写とは「想像の幅を狭める」ためにあるものではないと思っている。
仮に私が小説で、異世界の風景を「中世ヨーロッパ風の街並み」と描写したとして、読み手の頭にはどんな風景が浮かぶだろうか。
上記のコメントのように、石造りの家々かもしれない。赤レンガかもしれない。もしくはエーゲ海沿岸の、真っ白な大理石に囲われた風景かもしれない。
それぞれの読者の頭の中に、それぞれなりの「中世ヨーロッパ風」があり、その描写を読んだ時に想起するイメージも全く異なってくるのだろう。

だから駄目だ、と、コメントの方は言いたいのだろう。

だから良いのだ、と私は言いたい。

私は、読者の脳内に浮かぶ風景を、作者がひとつになるように制御する必要は全くなく、それどころか、制御してはいけないとさえ思っている。
作者の頭の中にある唯一の想像を、そのまま読者に転写することが小説だというわけではないはずだ。

街並みが赤レンガ造りであるか大理石造りであるかということに、ストーリー上重大な差異があるのだろうか。
あるのであれば、そこはきちんと描写しなければならない。
そうではなく、それが「中世ヨーロッパ風」であることこそが大事なのであれば、読者の脳内に浮かぶその「中世ヨーロッパ」を、むやみな描写で乱してはいけないと思っている。
読者それぞれの頭にあるそれぞれの「中世ヨーロッパ」の中で主人公達に冒険してもらうことこそが、その読者にとってもっとも面白く、効果的な読み方になるはずなのだから。

そう思ってしまうのは、私が「設定・ガジェット優先」(上記のエッセイに出てきた用語)の読み手兼書き手で、その中でも特にキャラとストーリーに偏重してしまうタイプだから、なのだろうか。
だとすると、「想像の幅が広がっていいと思う」というコメントした方は、どのような視点で、どのように小説を楽しもうとしている結果として、「描写は想像の幅を狭めるべきだ」と考えるに至ったのだろうか。
あまりにも違う考え方にぶつかってしまったので、せっかくだからその辺の感じ方を詳しく教えてほしかったりする。
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