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「キャラクターのトリレンマ」を提唱したい

今回は創作論について語ります。


漫画やラノベなどのキャラクターを作ることを考えてみる。
ここで、キャラクターとは一体なんだろうか。
長い間考えた結果、キャラクターは、「記号」であり、「舞台装置」であり、そして当然「人間」であるという3種類の役割を備えているという結論に至った。
以下、一つずつ解説。

①「記号」としてのキャラクター

これはラノベのキャラクターとしてはよく言われることだ。「キャラクター」という言葉の語源とも言える。
記号というのは、そのキャラクターをバシッ!っと一言で表すポイントで、アイデンティティと言ってもいい。
「金髪ツインテール」のように外見に起因する物もあれば、「女子高生」などの所属を表す物、「幼馴染」など主人公との関係性を表す物もある。
しかし圧倒的に重要なのが、「無口」「ツンデレ」「ドジっ子」など、そのキャラの性格や性質を表すものだ。
通常、1キャラが持つ記号はひとつではなく、これらを組み合わせてキャラが創造される。例えば「女子高生・無口・クーデレ・ショートカット・貧乳・文学少女」といった具合だ(今のは有名なとあるキャラを表したものだがわかっただろうか)。
こうして並べてみると、記号とはそのキャラについているタグと言った方がいいかもしれない。
実際、商品タグのようなものなのだ。
漫画やラノベにおいてなぜキャラの記号性が重視されるかと言うと、それらはキャラで評価される部分が大きく、そのためには想定読者に対して「この子はこういうキャラですよ!あなたの好みですよ!」ということを強くアピールしなければならない。そのため、アピールポイントとして一言ではっきりと言える特徴(つまり記号)が何より重要になってくるのだ。

②「舞台装置」としてのキャラクター

漫画にせよラノベにせよ、その軸となるのは物語だ。
全てのキャラクターは、この物語を動かす役目を持っている。
もちろん、偶然や自然現象、あるいは一般社会的な事象を使って物語を動かすことはできるだろうが、それらはあくまでスイッチでしかない。どんなにイベントを起こしたところで、キャラクターが全く行動しなければ、物語にはならない。
この時、もし作者に「想定したシナリオ」があれば、キャラクターをその通りに動かす必要性が出てくる。キャラが作者の手先になって、持って行きたい方向に話を誘導する。これが舞台装置という所以だ。
もしキャラクターに「自然な」行動だけをさせれば、到底作者の想定したシナリオをなぞることはできない。それどころかストーリーそのものがあってないようなものになる。(むしろその効果を最大限に狙った「日常系」などのジャンルもあるが、今回それについては論じるのを避ける)。
シナリオを重視すればするほど、どうしても、キャラの舞台装置化は必要だ。

③「人間」としてのキャラクター

キャラクターキャラクターと先ほどから連呼しているが、ここでいうこの言葉の意味は「登場人物」であり、勿論その大多数は「人間」である。
人間というのはなかなか難しい存在だ。簡単ではない。
つまらないことで腹を立てたり、悩んだり、気まぐれを起こしてみたり、性格にあわないことをしてみたり、演技してみたり、嘘をついてみたり、鬱屈した精神を抱えていたり。
どんな人間でも様々な悩みはあるものだし、「勇敢で臆病」とか、「真面目で軽薄」とか、「幼稚で達観」とか、二面性・多面性を抱えているのが当たり前だ。
キャラクターも、人間を描いている以上、これらの人間としての精神性のようなものを継承しなければならない。
そもそも、そういう複雑な人間の精神構造や営みを描き出すのが、有史以来から延々続いてきた「文学」の役目だと言える。ラノベはもはや「文学」といえる領域から相当に遠ざかっているとはいえ、そういう根本のところは切って離せない。


まとめてしまえば、キャラクターは「商品」としての顔、「作者の操り人形」としての顔、「描かれる対象」としての顔、この3つを持っているということだ。
で、ここからが本題なのだが、私はここで次の主張を発表したい。

キャラクターのトリレンマ:
キャラクターは、これらの役割のうち、3つともを同時に有することはできない。


そもそも、これら3つの役割は、どう考えてもお互いに邪魔しあっている。キャラの商品性を高め「記号」を強固に貼っていけば、それだけ「人間」性は失われるし、キャラの動き方は固定されて「舞台装置」としての利便性も下がる。逆に「舞台装置」として好き放題に動かせば、「記号」と矛盾することが多くなるし、「人間」性もなくなっていく。「人間」性を最優先に考えれば他の2つが難しくなることは明らかにわかる。
努力すれば、これらの内2つは同時に達成することができそうだと思う。しかし3つ全てというのはどうしたって無理だ。
以下で、2つずつを並存させる方法を見てみる。

・「記号」+「舞台装置」
用意した様々なキャラの中から、想定したシナリオどおりに動いてくれそうなキャラをしかるべき場所に配置すればよい。あるいは、シナリオを考えてから、それに適するように、キャラに記号を付加していく。
この場合、キャラは期待されるとおりに動くことが二重の意味で必須であり、人間特有の曖昧さ・多面性を発揮させてはキャラもシナリオも崩れてしまう。
「バッカーノ!」や「デュラララ!!」を始めとする成田良悟作品はこの姿勢をとっているし、ほとんどのラノベ作品においても脇役になるほどこのタイプが多い。「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイや、「涼宮ハルヒシリーズ」の朝比奈みくる・長門有希、「灼眼のシャナ」のほとんどのフレイムヘイズが好例だと思う。漫画でも「NARUTO」などがこのタイプ。

・「記号」+「人間」
これは簡単だ。記号としての側面を前面に出しながらも、人間としての迷いや悩みを見せていけば良い。ただし、こうしてしまうと作者側からのコントロールがほとんど利かなくなってしまう(=キャラが勝手に動く)。場合によっては、周囲のキャラを特に作者のコントロール下において間接的に引っ張っていかなければならない。
例として「ロウきゅーぶ!」では、バスケ部5人娘が順番にこのモードになり、残りの4人を使って状況をコントロールしていた。また、恋愛系の主人公(特に少女漫画)はこのタイプが多いように認識している。

・「舞台装置」+「人間」
これを実現するには、最初からキャラクターを「一人の人間」として強く描き出す。そして、その迷いや葛藤、二面性の中で複雑に揺れ動く心を描く。その「揺れ」の振幅をほんの少し調節し、その揺れに同期させるように、話の本筋を進めていけばよい。つまり、人間としての曖昧さをうまく物語の軌道修正に使うのである。
もちろん、このようなキャラが「記号」としての役割を持つことはできない。
例えば「氷菓」の折木奉太郎などは良い例ではないだろうか。彼の場合は、周囲に「記号」役と「舞台装置」役と「人間」役が上手く配置されているから、話にあわせて特に柔軟に動くことができる。漫画では、「進撃の巨人」がこのタイプを複数人配置した好例。他にも「東京喰種」の金木研など、やはり主人公が多いように思う。


ここからは、このトリレンマについて、興味深いキャラの例をいくつか挙げてみたい。

涼宮ハルヒ(「涼宮ハルヒシリーズ」)
このキャラは、ワガママ、ツンデレ(ちょっと違うが)、猪突猛進、負けず嫌いなどの多くの「記号」を持ち、また、無自覚に世界を改変する能力や、ストレスが限界を超えると世界を崩壊させる性質があって、まさに「記号」+「舞台装置」型の典型例である。
だが、彼女はこのような台詞も残している。

あんたさ、自分がこの地球でどれだけちっぽけな存在なのか自覚したことある?
あたしはある。忘れもしない。


これはまさに、思春期の「人間」そのものだ。この言葉から始まる一連の弱気な言葉は、ハルヒの「記号」のどれをとっても、全く適合しない。この時ばかりはハルヒは「記号」であることを捨て、「人間」であったのだ。ちなみにこの後世界崩壊の予兆が発生するから、この瞬間「舞台装置」+「人間」型をこなしていたことになる。
ところが面白いのは、この弱気な告白こそが、ハルヒというキャラの根幹を成している思想であり、全ての「記号」がこの思想から巡り巡って生まれたものであることが、話の中ですんなり納得できるのである。そもそもが「二面性」という記号を持っていた、ということだ。これはずるい。ずるし、非常に巧い。
この性質を活かして、ハルヒは第1巻の物語の中で、時には記号、時には人間と縦横無尽に立ち回り、トリレンマをほぼ克服していた。ただし、その割を食らったのがキョン、古泉一樹、長門有希、朝比奈みくるだ。この4名は第1巻の間中ずっと、ただの「舞台装置」であり続ける羽目になった。動き回るハルヒをフォローし、物語を制御し続けなければいけなかったわけだ。第2巻以降では、これらのキャラにも少しづつ人間性が与えられていくが、代わりにハルヒが人間性を発揮することがなくなってしまい、「記号」+「舞台装置」に成り下がってしまった。やはりトリレンマを克服するのは難しい。

上条当麻(「とある魔術の禁書目録」)
このキャラは「正義感」「困っている人を見捨てられないヒーロー」という記号性を強く持ち、なおかつ異能の力を打ち消す特殊能力を有している「舞台装置」でもある。その両方の性質を用いて超能力者や魔術師の戦いに次々と首を突っ込み干渉していく、「記号」+「舞台装置」型主人公の典型例だった。
ところが彼も、巻が進むうちに人間らしく悩むようになり、「らしくない」発言や行動を連発する。一時期は、「舞台装置」+「人間」型の主人公になっていたとまで言えるかもしれない。
実はこのような変化は主人公には珍しくない。例えば「神のみぞ知るセカイ」の桂木桂馬も、最初はギャルゲーマーとしての記号が目立っていたが、後半では一人の人間として悩みや葛藤がクローズアップされていた。
ところが上条当麻の場合、さらにもう一段階変化をする。人間としての葛藤を身に付けながらも、「ヒーロー」という記号を捨て切れなかった結果、なんと、舞台に出る機会がだんだん減っていくのだ。作者もさすがに扱いにくいと見たのだろうか。より扱いやすい、一方通行や浜面仕上へと、次々と「主人公を移し変えていく」手段に出た。
つまり、上条当麻は「記号」+「舞台装置」型→「舞台装置」+「人間」型→「記号」+「人間」型と3段階の進化を経たわけだ。
ただ、最終的にどの主人公も「人間」の性質を強く持つようになり、作者も困ったのか、3人の間で「舞台装置」役をころころ移した後、結局上条当麻が「記号」+「舞台装置」型に戻ったようだ。これもまたトリレンマの恐怖である。

中野梓(「けいおん!」)
「けいおん!」という作品はそもそも日常系なので、舞台装置も何もない、とも言えるのだが、この作品にも一応筋書きというのが存在する。
ある時期にそれを一手に引き受けていたのが、中野梓だった。しばらくの物語は、彼女を入部させるために動く。
したがって彼女は、最初は「記号」+「舞台装置」であったのだが、入部した途端に、「記号」+「人間」型に化けてしまう。飄々としたクールな雰囲気だったのが、寂しさを見せたり甘えたり、ずいぶんとキャラが変わったように感じたのは私だけだろうか。これは彼女に人間としての幅を与えたためだと思う。

ここまでの考察でわかるのが、大概のキャラは、最初は「記号」+「舞台装置」型として表れるということだ。その後で、「人間」としての面が強く描かれるようになっていき、トリレンマにより、「記号」か「舞台装置」のどちらかの役割が除かれる。もし「舞台装置」でなくなった場合は、新たな「記号」+「舞台装置」型キャラが出てくることになる。
おそらく、話を動かす為に必要なキャラを投入する、という作られ方をしているため、こうなるのだろう。
私としては、物語では常に「人間」を描いて欲しいし、描きたいと思っているので、この傾向はなんだかなぁと思わなくもない。とは言え、「舞台装置」+「人間」型があんまり発生するとラノベじゃなくなるしなあ。


余談だが、「GATE」炎龍編のレレイはとてもよかった。あえてあそこで記号を離れ、キャラを反転させることで人間的にすごい深みが出たと思う。
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「自由」の意味は4段階あると思う

「自由」とか「不自由」という言葉についてちょっと考えてみる。
以下は私個人のとりとめもない主張を適当にまとめただけのものなので、そういうのが苦手な方は読まないか、イライラを覚悟して読むことをオススメします。


“人間はどの程度自由なのか。”
まずはこの疑問に答えてみたいのだが、私が思うに、この「自由」には様々な解釈があって、ざっと次のような意見に分かれると思う。

①物理的な「不自由」
例えば、我々はジャンプして東京タワーの頂上に登ることはできないし、100m走のタイムには限界がある。そして、今のところどんな道具を使っても未来や過去に移動することはできない。
ある種の病気は治せないし、永遠に生きることもできない。
そういう意味では、我々は全然「自由」ではないということができる。

②物理法則下における「自由」
ところが、そういった物理法則によって制限されていることを前提としておくと、我々は本質的に限りなく自由ということもできる。「物理的に可能なことならば、何をすることもできる」というわけだ。
例えば、私は人を殺すことも「できる」し、スーパーに行って食料品を万引きすることも「できる」。大切な人に冷たい言葉を投げかけることも「できる」し、ビルの屋上から飛び降りることも「できる」。ここでいう「できる」というのは、「その能力がある」という意味だ。
物理的に不可能でないのに、誰がその行動を制限することができようか。たとえば殺人が刑法で禁止されていようと、それを認識した上でそれでも人を殺すことは実質的に「自由」だということもできる。

③法的な意味での「禁止」
法律で禁止されていることは不自由にあたる、という考え方は一般的だろう。ここでは、「権利」=自由、「義務」=不自由、と言いかえられる。
しかし、私はこの考え方はかなりナンセンスだと思っている。理由は後述。

④精神的な「不自由」
「物理的に可能である」ことと、「精神的に可能である」ことは違う。精神的に不可能であることは不自由に数えていいのではないか。
例えば、私は屋上から飛び降りることができるが、実際にはそれをやりたくない。これは単に私が「飛び降りないことを選択している」ということもできるが、もっと厳しく「私自身の精神的束縛によって飛び降りることが不自由である」と言ってもいい。
あるいは私はスーパーで万引きすることができるが、実際にはやりたくない。捕まるのが嫌だからだ(おそらく、日本に窃盗という罪が存在せず、万引きに何の罰則もなければ私は万引きすると思う)。この場合、私は「万引きのリスクとリターンを比較することによって万引きしないことを選択した」と言うこともできるし、「捕まりたくないという精神的束縛によって万引きが不自由になった」と言ってもいい。
どちらの意味でとるかによって、人間は不自由なのかという疑問に対する回答は全く異なってくる。
(余談だが、刑罰というのはそもそもこのような精神的束縛を誘導して、社会的に望ましく無い行為を抑制しようという原理である。だから刑罰による不自由はあくまで④の範疇内であり、前述したように、刑罰による不自由をそれ単体で分けて考えるのはナンセンスだと思う。)


思うに、大概の人が自由と不自由について悩む時、これらの様々な形態の自由の中で揺れているのではないのだろうか。
例えば、ある子供が友達と遊びたいのだが、親に「夕飯までに宿題をしなさい」と言われる。この子供は強く不自由を感じることだろう。しかし、物理的には、この子供は親の言うことを聞かずに遊びに行くことが「できる」。宿題をしないことが「できる」。後で親や先生にこっぴどく叱られるというだけで。
ところが、この子供はこっぴどく叱られることを嫌がり、宿題をすることにした。この行動は、「叱られる」リスクと「遊びに行く」リターンを比較し、自分にとってより望ましいと思われる方を「判断し、選択した」だけだ。つまりこれは、全く自由な選択の結果なのである。
ここまでが②の考え方だ。
これを④の考え方に変換すると以下のようになる。
この子供は遊びに行きたいという願望を持っていたのだが、その行動には親によって「叱られる」という(絶対に避けたい)リスクを付加されてしまった。これによって、子供自身の精神的束縛により「遊びに行く」行動が不可能になってしまった。子供が宿題をしたのはこの結果であるから、不自由であると言える。
あるいはこうも考えられるかも知れない。
この子供にとって最も望ましい結果は、「遊びに行けて、かつ叱られない」ことである。しかしそのためには、「遊びに行き、かつ夕飯までに宿題を終える」必要がある。これは物理的に不可能だ。つまり①の意味で不自由なのだ。

どうだろうか。考え方ひとつだけでこうまで自由と不自由の意味が変わってしまう。
もし私がこの例のような相談を受けたら、大概は「親を説得してみたら?」というアドバイスをしている。
宿題は夜でもできるが、友達と遊ぶことは夕飯までしかできない。宿題は必ず夜にやり遂げるから今遊びに行くことを許可してくれと。
こうすれば、最も望ましい結果である「遊びに行く」ことと「叱られない」ことを両立する結果が得られることだろう。
ただ、このようなアドバイスをするとしばしば言われるのが、「説得するのがそう簡単ではない、抵抗するのが怖い、言いくるめられてしまう」という反論だ。
私はそれでも相手が納得するまで粘り強く説得を試みればいいと思うのだが、どうもそういう問題ではないことがわかってきた。
この子供にとって、「親に抵抗する」こともリスクのうちなのだ。
つまり、本当は「遊びに行く」かつ「叱られない」かつ「親に抵抗しない」の3つを両立させたい。でも、それは不可能だ。だから不自由だ、と言うことなのだ。

これは①の意味での不自由だ。物理的というか、論理的にそれを成立させることはできない。
私が思うのは、こういうときに①の意味や④の意味で不自由を感じて憂鬱になってしまうなら、自分自身の頭を②の考え方に切り替えてしまえばどうか、ということだ。
望む3つを両立させることは物理的・論理的にできない。だからそれは前提として除外する。
その上で、物理的に可能な様々な選択肢がある。無理やり遊びに行くのもあり、諦めて宿題をするのもあり、親の説得を試みるのもあり。
それら一つ一つについて、リスクとリターンを考慮して、どの程度望ましいかを判断していく。その中で最も望ましかった選択肢を、「自分自身の自由でもって」選択する。
そのように考えれば、自分はなんて不自由なんだと辛くなることも無いんじゃないかな、と思う。
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