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【追記からネタバレ】「インシテミル」の読書感想

インシテミル (文春文庫)
米澤 穂信
文藝春秋
売り上げランキング: 45,879

ついにこの人。

米澤穂信さんは、私が敬愛する作家の一人だ。
「氷菓」に始まる「古典部シリーズ」に加え、「さよなら妖精」「ボトルネック」「犬はどこだ」「追想五断章」「儚い羊たちの祝宴」「折れた竜骨」などなど好きな作品には枚挙に暇が無い。複数作家の短編集「時の罠」に収録された「下津山縁起」も読んだし、米澤さんが編纂した短編集「世界堂書店」も全て読破した。(しかし。なぜか「小市民シリーズ」だけは一度も読んでいない。不思議と食指が伸びない)

もちろんこれらの読書感想は書くことになるだろうが、何を最初に書くかと言うことで、しばらく悩んだ。悩んだ上で、ふっと思ったのがこの作品だ。
先陣を切るなら、「インシテミル」しかない。
この作品には米澤さんのスタンス、スタイル、知識の全てが詰まっている。
ネットで検索すれば、それなりに批判も見つかるだろう。
設定にご都合主義がある、ラストが雑、トリックがしょぼい、映画化が悲惨etc……。
個人的には、とある重要キャラのバックボーンが全く見えず、行動原理が最後までよくつかめないことは残念ではあった。
このように、欠陥が無いとは言い切れない小説である。
だが、文句無く面白い、楽しめる小説でもある。
ここではその「楽しめる部分」に焦点を当て、特に私がどう楽しめたかというポイントを3つに絞って紹介したいと思う。
「インシテミル」を読んでみて楽しめた方も、楽しめなかった方も、なるほどこいつはそういう楽しみ方をしたのかと思ってもらえれば嬉しい。

私の思うポイントは以下の3つ。
 ①いかにも「ミステリ的」なガジェット
 ②主人公の趣味に関する丁寧な伏線
 ③ミステリ畑に対する皮肉的な展開

以下、順番に見ていこう。②からはネタバレを含むので、十分に注意して欲しい。なお、映画版は原作と全く内容が異なるので、読んだうちに入らないぞ。


①いかにも「ミステリ的」なガジェット
米澤さんが宣言したとおり、舞台は古典ミステリの定番、クローズドサークル。「暗鬼館」という閉鎖された環境で12人の被験者が殺し合い、疑心暗鬼になっていく。
そんないかにもな状況を補強するように、暗鬼館のあちこちには古典ミステリを髣髴とさせるガジェットが配置されている。
壁に貼られた館の見取り図。円卓に置かれた12体のインディアン人形。一人に一つ与えられる〈おもちゃ箱〉の中には、殺害方法の異なる凶器。その凶器の出典を示す〈メモランダム〉。そしてカードキーの裏の〈十戒〉

特にこの〈メモランダム〉は、なかなか秀逸だ。
たとえば主人公の凶器「火かき棒」には、このような〈メモランダム〉が添えられていた。

〈殴殺〉
 人類が暴力をふるいはじめたとき、最初の武器は五体だっただろう。
 おそらくその次が、棒だったに違いない。
 極めてプリミティブ、洗練のかけらもない原始武器。それだけに、激情を発端とする殺人では、しばしば棒が登場する。
 その中でももっとも印象深いのは、なんといっても「火かき棒」だ。多くの、あるいは全ての部屋にマントルピースが備えられた洋館を舞台とすればこそ、火かき棒はつねにそこにあり、殺人者の手に握られ、多くの命を奪ってきた。
 そして、ミステリ史上もっとも有名な「火かき棒」は、おそらく『まだらの紐』に登場したものだろう。
 さて、この棒を手にしたあなたは、これを曲げ、そして戻すことができるだろうか?
 できなくても構わない。曲がっていてもいなくても、その一撃が殴殺に足ることに違いはないのだから。


このように、各凶器には異なる〈○殺〉の題と、それに関わる薀蓄、そして最後には関連のある有名なミステリ小説のタイトルが記され、〈メモランダム〉は終わる。
こうやって様々なガジェットを散りばめて、読者をワクワクさせておきながら、実はこれらの意味は違うところにある。終盤、この〈メモランダム〉がヒントとしての重要度をどんどん増していく流れは圧巻だ。

「〈撲殺〉も〈殴殺〉ももう出ている。その上で、となると……。もしかするとベントリーか?」



②主人公の趣味に関する丁寧な伏線

主人公はとある趣味を持っていて、それが終盤に重要な意味を果たすのだが、これに関する伏線が相当丁寧に貼ってある。本来のトリックよりも、米澤さんがメインとしたかった謎はこっちなんじゃないかと思えてくるほどだ。
以下、終盤のネタバレを含むので、追記とする。
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【超々ネタバレ】「塔の断章」の読書感想

新装版 塔の断章 (講談社文庫)
乾 くるみ
講談社 (2012-11-15)
売り上げランキング: 634,205



私は乾くるみに完全に敗北していた。

「塔の断章」は、ミステリと言っていいのか微妙な部分はあるが、まあミステリである。
ミステリと言えば、読者は作者との対決をするつもりで望むという楽しみ方がひとつの主流だ。私はミステリと明示されている小説に対しては、いちおうその立場で臨むことにしている。
さて、作者はあの「イニシエーション・ラブ」で有名な乾くるみ。そう、私が何回か前の読書感想で「トリックを見抜くことができた」などと勝利宣言をかました「イニシエーション・ラブ」である。
まあ、なんというか、それが今回の読書感想の伏線になっていたわけだ。
以下、「塔の断章」のネタバレを全開全力で含むので、未読の方は十分に注意してもらいたい。まあ読むなとは言わないが、私と同様の楽しみ方をしている人間にとっては、その楽しみの9割は削ぎ落とされると言っていい。
あと、もしかしたら勘のいい方にとっては、「イニシエーション・ラブ」のヒントにもなってしまう可能性が微妙にあるので、その辺をご了承の方のみ先に進んでいただきたいと思う。


まずこの本の構成だが、「塔の序章」「塔の断章」「塔の終章」の3部から成っている。
「塔の序章」では、名前の不明な女が名前の不明な男と会話をして、塔の最上階から突き落とされる。
「塔の断章」は、ある女が塔の下で落下死しているのを発見するシーンから始まる。そこで場面は変わり、その女が妊娠していたことについて、誰が妊娠させたのか、また、突き落とした犯人は誰かという調査の依頼を、主人公が受ける。また場面が変わって、主人公とその女との出会いが描かれる。
このように、次々と場面を変え、主人公の周囲の物語を描写していくのが「塔の断章」パートの特徴だ。ひとつひとつの場面は短く、時系列もばらばらとは言え、事件の流れが適度にわかりやすく、適度にわかりにくい程度に再構成されている。

私は、主人公の性別が女には見えるが、よく読めば曖昧に描写されていることに気付いた。
そう、気付いてしまった。いや気付かされたのだ。
どうせあの「イニシエーション・ラブ」を書いた乾くるみだ。主人公の性別を女のように見せかけ、実は男だったとする叙述トリックである可能性は十分ある。その場合は、女を妊娠させたのは主人公。突き落としたのも主人公ということもありえる。
その可能性も頭に入れて読んでおこう。これでこの小説には騙されないな。
そう曖昧に思っていた。読書中ずっと、自分は騙されていない気でいた。

時系列がばらばらであることも、何かの叙述トリックを際立たせるための意図だろうとしか考えなかった。「何かの」と言っても、自分の中では性別誤認トリックが最有力だった。ほとんどそれしか頭に無かった。

あれほど、叙述トリックは必要以上に意識しないと決めたのに。

完全に目が曇っていた。今読み返せば、気付くためのヒントはどこにでもあった。
自分で気付いた男女誤認トリックに囚われて、何もかもを都合のいいように読んでいた、

終盤、「とある描写」があり、主人公の性別が女(!)であることが完全に確定する。
その時の私は、というと。
ほとんど何も思わなかったのだ。
「なんだ。叙述トリックじゃなかったのか。ふーん」
といった具合である。想定していたひとつの可能性が消えただけ、という感じで、それがどれほど愚かなことか私はまだ気付いていなかったのである。

そして「塔の終章」。
(次の文は本当に重大なネタバレなので十分に覚悟してほしい。)

「塔の序章」で突き落とされた女は主人公であり、「塔の断章」の時系列ばらばらパートは主人公の走馬灯だったということを読者は知る。

つまり、時系列は、本当は狂ってはいなかった。
「塔の序章」から始まって「塔の終章」まで、完全に一本の糸で繋がった主人公の主観を読んでいたということだ。
だが、その時の私は、やはりほとんど何も思うところが無かった。
「ほう、走馬灯とは面白い構成だな」
といった具合である。ドアホだ。真に救いがたい。

本当に信じがたいことだが、なんと私は、読み終わってもこの小説に勝ったつもりでいたのである。
男女誤認は警戒しておいたけど、違っていたのでなんともなかった。
時系列入れ替えによる何らかの誤認も警戒して読んでいたが、何もなかった。
主人公が男である可能性と女である可能性は両方考えていたのであって、特に「塔の序章」で突き落とされたのは最初に落下死した女とは別人である可能性も睨んでいた。それが主人公である可能性も除外していなかったので、ネタ明かしにはほとんど驚くところはなかった。
つまり私の勝ちである。
繰り返すが、本当に信じがたいのだが、どうも本気でこのように考えていたようなのだ。

何のことはない。私は単に「想定しうる全ての状況説明」を並べて、そのうちのひとつが当たったと喜んでいただけなのである。

後でネットでレビューを読み、ひっくり返るほど驚いた。
「男女誤認の叙述トリックだと錯覚させること」および「時系列に関する叙述トリックだと錯覚させること」、それこそが「塔の断章」に仕掛けられた真の「叙述トリック」だったのだ。
これを「叙述トリック」ではない、とする向きもあるだろう。確かに真の定義からは外れているかもしれないが、まさに読者はこの本の「叙述」に引きずられ、読者のみが騙されると言う点は叙述トリックの本質的な条件そのままである。何より、真実が判明した瞬間に物語の位置や構造が完全に逆転する構成は、叙述トリック独自の特徴とも言えよう。
新本格時代の叙述トリックの波に見事に乗っかり、それを逆用する構想。
私はそれにまんまと引っかかり、その挙句に「全パターン想定していたから大丈夫」なんてことを抜かしていたわけだ。
ちゃんと読んでいれば、主人公が「本当に」女であること、さらに言えば構成が走馬灯を模していることすら、ヒント程度のものは見つかるようにできている。しかし自分で見つけたしまった偽の叙述トリックに拘泥すれば、気付けない。非常に巧妙だ。

おそるべきは乾くるみ、これより後に「イニシエーション・ラブ」を出している。つまり先に叙述トリックの波をひっくり返すようなことをしておきながら、その後で大仰な叙述トリックをちゃっかりやっているのである。これは真似できない。私はようやく、乾くるみが遥か高みにいたことに気付いた。

と言いながら、「嫉妬事件」なんていう強烈な作品を出していたりもするし、本当に捉えどころのない人だなあ。
また私にとって、「悔しい」作家リストが増えてしまった。
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【微ネタバレ?】「ライオンハート」の読書感想

ライオンハート (新潮文庫)
恩田 陸
新潮社
売り上げランキング: 153,268



いつもあなたを見つける度に、ああ、あなたに会えて良かったと思うの。いつもいつも。会った瞬間に、世界が金色に弾けるような喜びを覚えるのよ。


物語で目が潤んだ経験は、数えるほどしかない。
本当に数えてみたら、たったの6回だった。

最初に感想を書いた、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』。
BUMP OF CHICKENの『車輪の唄』の歌詞。
『ワンピース』の、メリー号が燃えるシーン。
ボカロ曲の『サイハテ』。
涼宮ハルヒシリーズの二次創作SS『鼻歌とチョコレートケーキ』。

そして、この『ライオンハート』。

この内5つまでは、私の胸を突き動かしたものがなんだったのか、はっきり説明することができる。それは悲しさであり、寂しさであり、切なさである。
簡単に言えば、どれも別れの物語であり、別れの余韻を描いた部分に私は弱かった。
余韻の中に思い出が詰まっていて、感情が詰まっていて、そのひとつひとつの走馬灯を私自身が一緒に追ってしまう感覚に弱かった。
最後に同時にいられる瞬間に、「ありがとう」「幸せだった」と言って笑顔で未来へと歩き出すようなシーンに弱かった。

しかし、最後のひとつ『ライオンハート』だけは、自分自身何に感動したのか、さっぱりわからなかった。どのシーンのどの一行が胸を突いたのかと言われれば、どうもそのようなシーンがない。強いて言えば、冒頭に掲げた一節であったり、次の台詞は印象に残り続けている。

いつも、うれしかった。
覚えて、いてね。
わたしのエドワード。わたしのライオンハート。


しかしこれらは第一章にあたる箇所に出てくる、かなり序盤の台詞なのだ。もちろんこの箇所を読んだ瞬間に急に胸が締め付けられることもなかった。
最後まで読み終わってみて、何と言っても伝わらないような強烈な読後感に襲われて、それからしばらくしてこの2つの台詞がふっと頭に立ち戻ってきたのだ。そして、なんだかわからないままに私の目は潤んでいて、この台詞を一生忘れられなくなった。
それが、この本に対する一度目の、私の読書体験の全てである。

この本は母親からの借り物であった。そこで、私はもう一度この本を借りて読むことにした。読書感想を書くなら遅かれ早かれこの本は欠かせないと思ったからだ。
やはり再読は凄い。プロローグから既に感動が襲ってきた。

この本は、5つの短編と、それに付随するプロムナードと呼ばれる小編と、2人の男女で構成されている。
5つの短編は時代も国も、物語としての形も全く異なるばらばらなものだ。けれども描かれるのは常に同じ男女。エドワードと、エリザベス。
2人は若い男女であったり、老齢であったり、片方が少女だったりするし、生まれも境遇も様々ではあるのだが、「同じ」エドワードとエリザベスである。生まれ変わりのように、あるいは先祖返りのように、別の時代の記憶をフラッシュバックさせながら人生を歩む。時にはその時点より後の時代のエドワードや、自分自身の未来の記憶を見ることさえあり、単純に一本の線で結べるというわけでもない。
5つの短編に唯一共通するのは、2人が出会うということ。それだけだ。
2人が長い年月をかけて、一度だけ出会って、そして別れて、その短編は終わり。
『ライオンハート』は、言ってみれば、それだけの物語なのだ。
でも、それだけの部分を、何よりも壮大で、美しく、羨ましく、運命的に、そして切なく書く。

向き合って立っている二人は、一幅の絵というよりも、神話の彫刻のように見えた。
「エドゥアール、あなたなのね。今度もまた会えたのね」
娘は感きわまった表情で青年を見上げた。青年も、ただひたすら無言で彼女を見下ろしている。
「やっと、会えた。私のエリザベトに。何年も待っていた」


初読のように目が潤むまではいかなかったが、胸を締め付けられるような切なさは健在で、逆に冷静になった私はようやく、この本にこうまでも気持ちを動かされる理由を見つけることが出来た。

この物語は、生きる意味を描いている。

この本を読んだ時、私は大学生になったばかりだったはずだ。その年代によくあるように、私は生きることに不安を持っていたと思う。何のために生きるのか。死んだら何が残るのか。とりあえず人生を進んで、最後まで生きて何があると言うのか。今死ぬのと後で死ぬのと何が違うのか。
そんな私にとって、この物語は強烈と言うどころのものではなかった。
エドワードの人生は、誇張でもなんでもない「人生の全て」は、まさに「エリザベスに出会う」、本当にそれだけのためにあるのだ。
出会ってしまったら、それで終わりだ。
でも、その「出会う」一瞬が、それまでの人生を何百倍にもしたような「金色の喜び」で満たされるのだ。
エドワードにとってはそれで十分であり、それが生きる理由。生きる価値なのだ。
これが私には物凄く鮮烈で、強烈だった。そういうふうに生きる意味を与えられることが羨ましかったし、憧れたのだ。だから最初に挙げた2つの台詞ばかり印象に残っていたのだ。

将来の夢なんて大層なものはなくてもいい。そこそこの夢をかなえて、そこそこの暮らしに満足して、少数の大切な人を作って、手の届く範囲の幸せを追えばいいじゃないか。

昭和のビッグドリームな時代が終わって、このタイプの考え方が平成の主流になった部分はあるだろう。私も、そちらの人間と言える。
それを、大人の社会は否定する傾向にある。もっと夢を持て。生まれてきた以上使命がある。
それは私にはどうしてもわからなかった。社会を良くするとか、そういう方向に生まれてきた意味があるようには到底思えなかった。
その中で目の前に現れた『ライオンハート』は、どちらの考え方とも微妙に違った。

世界にたった一人だけいる大切な人を見つけて、その人と出会う。それを人生と呼ぶ。

そんな感じだった。
私はこの強烈なシンプルさに胸を打ちぬかれたのだろう。
当時はそんな風には分析できていなかったが、それが染み込むように入っていったのだ。
それが理由なのかは知らないが、この本を読んだくらいの時期から、考え方が変わって妙に生きやすくなったのは覚えている。

私も、『その人』を人生と定義しよう。
その人生を最後まで進んでみよう。
今はそう思っている。
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【微ネタバレ】「葉桜の季節に君を想うということ」「イニシエーション・ラブ」のまとめて読書感想

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)
歌野 晶午
文藝春秋
売り上げランキング: 4,324

イニシエーション・ラブ (文春文庫)
乾 くるみ
文藝春秋
売り上げランキング: 1,136



今回は直接本題に入るには色々問題があって、前置きが長い。でも読んで欲しい。

ある時急に、叙述トリックというジャンルに手を出そうと決意した。

この一文を読んで、(もしこのブログを前から読んでくれている方がいれば)前回の感想を思い出してくれた方もいるかもしれない。そう、前回は、「謎が解けた瞬間に世界が変わる快感」について書いていたのだった。しかし、その体験があって叙述トリックに興味が沸いたかというと、実はそうではない。
実は叙述トリックに関しては、その前から少しだけ知識があったのだ。頭でっかちな私はネットでせっせと知識を漁り、「叙述トリック」という名前のトリックの分類があることや、その説明を把握し、「該当作品を全く読まずに」それがわかった気になっていた。
それで満足してしまったのだろう。ある時期までは頑なに該当作品を読まなかった。
読んでみたいという気も確かにあったはずだが、何故だか一向に食指が伸びなかった。今となってはその理由は全くわからない。その内、当時の心理状態を解き明かしてみたいとは思っている。

何故かは知らないが、急にこの2作を読む気になった。
ここからの話は少しネガティブになる。
私は自分のブログで我慢はしたくないので、言いたいことは言ってしまうことにする。叙述トリックが大好きな方はどうか許して欲しい。

この2作を読んだ今、叙述トリックに対して抵抗がなくなったかと言うと、
むしろ、以前よりも読みたくなくなった
というのが正直な心情なのである。

前置きはこの辺にしておこう。ここまで読んで「読む価値もない」もしくは「なんかネタバレをされそうだ」と思った方は、非常に残念だが、もうブラウザバックしていただいているとは思う。だからこの先はそういった方には遠慮せず書く。まあ、読んでいない方にトリックがわかるような重要なネタバレをする気はないが、この感想がヒントになってしまうことは確かだろう。

この2冊は、叙述トリックの名著として、たびたび色々な場所で名前を挙げられる作品である(厳密には、あともう1~2作ほどその手の作品がある)。
叙述トリックとは、「読者のみに向けて用意されたトリック」の総称である。具体的には、地の文における曖昧な描写や人称、幅広く解釈できる台詞、章の変わり目に存在する時間的ギャップ、視点以外の場所での動き、その他もろもろの「描写されない部分」に重要な情報を埋め込んで、「嘘は書かない」というルールを満たしながらも読者を騙すことを成立させる。地の文などの描写(=叙述)がトリックの主な仕掛けになっているから、作中人物にはそのトリックは意味を成さない。つまり、読者だけが騙される可能性のあるトリックなのである。逆に言えば、作中人物がそのトリックに引っかかる場合、それは叙述トリックではないと言っていい。

私は「叙述トリックがある」という情報を持った上で、この2作品を読んだ。
さらに、叙述トリックに関する一般的な解説をよく調べた上で、それらを意識しながら、読んだ。
順番は、「葉桜の季節に君を想うということ」→「イニシエーション・ラブ」である。結果は1勝1敗。「葉桜~」は種明かしに至るまでトリックに気付けず、「イニシエーション・ラブ」は相当早い段階でトリックの全貌に気付けた。

まず、「葉桜~」を読んだ時の感想。
非常に悔しかった。
種明かしを受けた時の、そんなことがあるか、という衝撃と、物語の全てが塗り変わる快感。そして、全編を読み返して、全く嘘をついていないということにあらためて驚愕し、何故気付けなかったと悔やんだ。
「その」トリック自体は、叙述トリックの一般的な解説を読んで知識としては知っていたはずなのに。全く、思いつけなかった。
この時、初めて叙述トリックの凄さを体感したといえる。やはり知識として持っているのと、自分で体験するのは何もかも違う。
これによって、私は叙述トリックの魅力にハマった。
絶対に次は見抜いてやると誓った。
そう、確かにこの時、一度はその魅力に完全に引き込まれたのだ。

それを打ち壊したのが「イニシエーション・ラブ」だった。
しかし、勘違いしないで欲しい。「イニシエーション・ラブ」という作品は、全く悪くない。むしろ素晴らしい作品だ。
ただ、「叙述トリックを2作品読んだこと」が、そもそも間違いだったのだ。

私は「葉桜~」のトリックを見抜けなかったことが相当悔しく、「イニシエーション・ラブ」は全てを見逃さない覚悟で読んだ。
それこそ、登場キャラの情報は全て「明示されていること」しか信用せず、はっきりと示されていないのに勝手に思い込んでいるデータが少しでもないかと目をぎらつかせ、頻繁に頁を戻しながら読んだ。
ものすごく時間がかかった。
最初は電車で読んでいたが、到底読み続けられず、喫茶店に移動して集中して読んだ。
そして、「そのトリック」が発動するや否や、疑いをつけた。
元々「目次」を見た時点で怪しいと思っていた部分ではあった。
そして最初の伏線が張られたタイミングで、確信を得た。

ついに私は、叙述トリックを見抜くことができたのだ。

全く、達成感はなかった。
ひどく疲れた。
こういう風に読むもんじゃない、と心底思った。

しばらくの内は、それでも「作者に勝った」ことが嬉しかった。
「イニシエーション・ラブ」は文句ない出来の小説だった。物語と叙述トリックが密着しており、トリックを解くことで物語全体の意味すら反転する恐ろしい構造を持っていた。
加えて「葉桜~」を読んだ時の興奮も残っており、叙述トリックに対する私の印象は相当よかった。

叙述トリックはミステリの新境地だ。
今まで切り込めなかった場所に考える余地を置いて、読者に聖域を与えず、より本質的な作者との対決をさせることができる。
そう思っていた。
3日経って、冷静になって、私の立場は反転した。

叙述トリックは決して褒められたトリックじゃない。
フェアか、アンフェアかという巷の論争に参入するつもりはない。
トリックとしては完全にフェアだ。しかし、それとは関係なく、それ以上の問題が起こっている。これはミステリとしての、いや、小説としての面白さの問題であると思っている。

私は「葉桜~」に騙され、叙述トリックとは「行間」に潜むトリックであることを身を持って実感した。
小説には、物語のあらゆることが描かれるわけではない。
章と章の間。文と文の間。設定と設定の間。
なんてことのない描写の中にも、必ず省略されている箇所がある。それは本読みには「行間」と呼ばれる。行間を読むことが、物語を読むための基本技術と言っていい。
私は叙述トリックを完璧に読み抜くつもりで、「イニシエーション・ラブ」を読んだ。
その結果、私は全ての「行間」が信じられなくなった。
主人公の性別。年齢。職業。身長。体重。家族。暮らし。
書かれていないことは、何一つ決め付けてはならない。いくら「それっぽく」見えたとしても。
しかし、全ての情報が書かれている小説など、有り得ない。
主人公はこの後家に帰ったか。学校に行っているか。トイレには行ったか。呼吸はしたか。健康か。ペットはいるのか、いないのか。そもそも、こいつは本当に人間か。生きているのか。妄想ではないのか。多重人格ではないのか。
時系列は本当に繋がっているか。この文から次の文の間にギャップはないか。途中で視点が変わってはいないか。目の前の人物が変わってはいないか。場所が移動していないか。
舞台は日本か。地球上のどこかか。そもそも現実世界を模した舞台なのか。魔法はないのか。超能力はないのか。宇宙人ではないか。未来人ではないか。異世界人ではないか。

そう、全てを疑えば、キリがないのだ。
小説は、そういった、無数の「暗黙の了解」によって支えられている。
行間を読めなくなった小説は、崩壊する。
実際この「イニシエーション・ラブ」のことを、「トリックは凄いが内容は陳腐な恋愛小説」とする評価もある。それは冷静に見れば的外れな批判だ。恋愛小説として読むと、確かに何の変哲もないストーリーかもしれないが、それでも描かれる心情の動きは面白い。
ただ、これをミステリとして読むと確かにそうなる。
トリックを見抜こうとするほど、「行間」の味わいが消滅していき、何も感じることができない小説になる。
だって、心情の動きなんて「行間」にしか書いていないのだから。

叙述トリックに対する私の読書姿勢は、およそ理想的な読み方とは正反対の、読書の味わいをことごとく叩き潰すものだった。
しかし、相手が叙述ミステリである限り、この読み方を放棄することはできない。
なぜなら、ミステリは本質的に、作者と読者との対決だからだ。
作者が挑戦状を叩きつけ、読者がそれを受ける。はるか昔から、本格ミステリとはそのように定義付けられてきた。
であれば、作者が(あるいは出版社が)これは本格ミステリだと言って叙述トリックを叩きつけるなら、読者は全力でそれを読み解くことから逃れられない。
ならば、もう、仕方が無い。
叙述トリックは好んで読まない。
小説を読むことの面白さを損なわないためには、そうするしかないのだ。
もちろんこれからミステリを読んで、たまにはそうと知らずに叙述トリックに出くわすこともあるだろう。しかし、それならそれでいいのだ。
叙述トリックと気付かなければ、ひどい読み方をする必要も無い。爽快に騙されて、悔しがることができるのだ。
その時私は、叙述なら叙述と言ってくれとか、アンフェアだとか、言い出すかもしれない。
しかし、「イニシエーション・ラブ」を読んだ時の、あの台無しな読み方よりはどうしたってマシだと断言できよう。


(蛇足)
ちなみに、私は個人的にこの2作を、「本格ミステリ」だとは思えない。
巷ではそう呼ばれているのは知っているが。
というのも、この2作は「解くべき謎」を作中に全く明示していない。叙述ミステリの性質上、それは当然のことだが……。もしミステリと言われずにこれらを読めば、最後に種明かしを読むまでとてもミステリとは思わないし、謎があることすら全く気付かないだろう。それをミステリと呼べるのか?作者と読者の勝負といえるのか?
まあこの辺りはまた別の複雑な話になりそうなので、ここでは別件としておいておく。
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【微ネタバレ】「カラフル」の読書感想

カラフル (文春文庫)
カラフル (文春文庫)
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森 絵都
文藝春秋
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どんなジャンルの物語にも、「謎解き」は挿入できる。
私が最初にそのことを実感した小説は、ライトノベル「灼眼のシャナ」第一巻であった。しかしその効果までもをはっきりと思い知らされたのは、まさにこの「カラフル」だったと言っていい。

この作品は決してミステリではないし、分類するとすれば、謎解きというジャンルにはなんら関係の無い児童文学や青春小説の類に入ると思われる。
ただし、この物語にはあるひとつの「解き明かされるべき謎」が存在する。
その謎は最初からずっとあるが、序盤はその重要度が低く、普通に物語を読んでいくぶんには置いておいてもよい謎だ。
しかし読み進めるにつれて、物語の構造の中でその謎の重要度が増していく。

この物語を理解するためには、その謎を必ず解き明かさなければならない。
これがとても重要なことなのだ。
ただ、この「解き明かす」と言うのには、もちろん「物語の中での種明かしによって解答を知る」というのも入る。必ずしも「完全に自力で」謎解きをする必要は無い。
ヒントというか、230ページで核心に近い決定的な台詞は出てくるし、さらに234ページまで読めば答えそのものが明かされる。
それも含めて、とにかくこの謎が解けた瞬間、物語は一気に変貌する。
その瞬間までの物語も、ちゃんとひとつの物語として成立しているし、それはそれで非常に面白かった。
しかし、それは「カラフル」の本当の物語ではない。
では234ページからの残りの、わずか10ページちょっとが本当の「カラフル」かというと、そういうわけでもない。

234ページまでの全ての物語が、謎を解き明かした状態ではじめて、本当の「カラフル」の物語となるのだ。

当然、初読ではその状態にならないので、それはそれで非常に読み応えのある、表面上の物語を読む。
そして、謎を解き明かした瞬間の、その一秒にも満たない間に、それまでに読み進めてきた記憶が、過去へとさかのぼって「本当のカラフルを読んだ記憶」へと変化する。

私はというと、230ページの「核心的なヒント」によって、真相を知った。それはちょうど主人公が謎を解いた瞬間でもある。つまり、私は主人公と全く同時にこの物語を理解したわけだ。
それはまるで、何かが爆発したかのような体験だった。
こんなことがあるのか、と思った。
今までに小説を読んで、ワクワクしたこと、ドキドキしたこと、楽しいこと悲しいこと、そういう感情を与えられたことはいくらでもあった。
しかし、こういったタイプの、「快感」と呼べる感情を読書から与えられたのは、この時が初めてだったと思う。
まさにこの瞬間、私は「物語を解き明かす快感」の虜になってしまったのだ。

物語と「謎解き」の親和性は、推理小説の中にしかないと思っていた。
しかし、この本を読んで知った。どんなジャンルにも、謎解きは入る余地がある。いやむしろ、入るべきであると。
「刹那の間に物語の全てを読む」という体験は、「謎」を解くことによってしか生まれない。
もちろん、単にミニゲーム的に謎解きがあるのとは意味が違う。「カラフル」では、主軸となっている物語構造の中で「謎」の占める重要度が極めて大きく、物語と謎が相互に密着していることが何より重要だったのだ。

私の読書傾向や、物語に対する向き合い方はこの時から大きく偏ってしまった。
この体験の後、米澤穂信を読み、アガサ・クリスティを読み、西澤保彦を読み……とどんどんミステリ方面へ傾倒していくことになるのだが、全てはこのときの体験、「物語の謎を解き明かすことで、全体が一変する」という快感を再び得ようという動機があると思われる。
しかし良く考えれば、別にミステリを読む必要は無いのだ。
ミステリでは、「謎」そのものが主役であり、「謎を解くこと」こそが物語の主軸となってしまう。
それでは、「物語と密着した謎」の存在によって物語そのものを反転させるという効果はむしろ得られない。
「カラフル」のように、謎を主軸としないジャンルにこそ、このような体験が潜んでいるのかもしれない。

ところで、この感想を「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」の直後に書いたのは意味がある。
「カラフル」によって、私は謎を解くことの快感を知り、物語に対する意識が偏ってしまった。
それから少し極端になりすぎてしまったのだろう。私はとにかく「種明かしより前に物語を暴いてしまおう」という意識で読書に望む体勢になっていた。
しかし前回書いたように、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」では読む前から謎が解けている状態であった。つまり、その時の私の意識からすれば、物語を読み、謎を解くことによって得られる感動は既に吸い出されてしまったことになる。
にもかかわらず、私はその物語で感動させられた。
「謎解きの感動」を教えてくれた「カラフル」に、「謎解きに頼らない感動」を取り戻してくれた「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」。この二冊は間違いなく、私の読書経験を語る上で外せない二冊なのだ。
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