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お金と幸せの論理的関係について考えた

問題

xを整数とする。次の命題P1、P2、P3および命題Qの間に「ならば」の関係があれば、それをすべて挙げよ。

P1:xは0以上99以下である。
P2:xは-99以上0以下である。
P3:xの絶対値(|x|)を100で割った余りは5である。

Q:xは-10以上10以下である。



答え
P1、P2、P3の間には明らかに何の関係もない。
これらとQの間にも、以下のように「ならば」の関係は存在しないことがわかる。

・P1とQ
たとえばx=11は、P1を満たすがQを満たさない。
たとえばx=-1は、P1を満たさないがQを満たす。

・P2とQ
たとえばx=-11は、P2を満たすがQを満たさない。
たとえばx=1は、P2を満たさないがQを満たす。

・P3とQ
たとえばx=105は、P3を満たすがQを満たさない。
たとえばx=1は、P3を満たさないがQを満たす。

つまり、「ならば」の関係はひとつもない。
数学的に言えば、
P1、P2、P3はそれぞれQの必要条件でも十分条件でもない。


ところが、P1、P2、P3のうち二つずつを組み合わせると、ちょっと面白いことが起きる。

・P1かつP2
この二つの命題を同時に満たすのは、x=0に限られる。
この時は、必ずQを満たす。
つまりP1かつP2はQの十分条件である。

・P1かつP3
この二つの命題を同時に満たすのは、x=5に限られる。
この時は、必ずQを満たす。
つまりP1かつP3はQの十分条件である。

・P2かつP3
この二つの命題を同時に満たすのは、x=-5に限られる。
この時は、必ずQを満たす。
つまりP2かつP3はQの十分条件である。

これはどういうことであろうか。
P1、P2、P3という条件は、単体でxに課しても全くQには届かなかったのに、
それらのうち二つをxに課すと、たちまちQを十分満たすことになるのだ。

数学的にはこれ以上話が広がることはないだろう。
ただ、とんでもなく非数学的な感覚を述べてしまうなら、
P1、P2、P3はQの必要条件でも十分条件でもないけれども、Qとなんらの関わりもないとまでは言えない感じがする。
それらの条件をそれぞれ単体でxに課したとき、少しだけQに近づいたというか、Qを満たしやすくなった、というような感じだろうか。当然、これは全く数学的な表現ではないし、数学的なセンスでもないのだが。


ところで、最近幸せとお金の関係がちょっぴり話題になったらしい。
https://togetter.com/li/1063980
私の意見としては、お金=幸せ、では決してない。
それどころか、お金は幸せの必要条件でもないし、十分条件でもない。

お金を持っていなくても幸せにはなれるし、お金を持っていても幸せでない人もいる。

ではお金と幸せに全く何の関係もないかというと、そうではないと思う。
この記事冒頭の問題は、その感覚を説明するためにひねり出した喩えだった。

お金という条件単体では、幸せとの間に論理関係は無いように見えるが、他の何らかの条件(たとえば「豊かな人間関係」とか)を組み合わせることで幸せの十分条件となる、というのが私の回答だ。
おそらくこの場合のQ(=幸せ)にたどり着く命題Pは3つどころではない。
幸せを構成する雑多な条件がいくつも散乱していて、それらはどれをとっても幸せの必要条件にも十分条件にもならない。
しかし、それらのうち規定量を取得することで、それらのセットが幸せの十分条件となる。
そういう地道にポイントを集めてゲットするのが幸せというやつだと思う。
以上です。
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ジムノペディとC#と藤井システムと

- 1 -
私の一番好きなピアノ曲は、エリック・サティの「ジムノペディ」である。

サティをインターネットで調べると、「音楽界の異端児」とか「変人」とか出てくるが、私はこのジムノペディの旋律に、堅固な理論と計算、そして独創性の中に潜む常識的な一面を感じずにはいられない。
この曲、斬新で現代的でありながらも、どことなく古めかしさを感じはしないだろうか?
というのも、「ジムノペディ」は古代の祭典を表す言葉であり、サティがこの曲に取り入れたのは300年も前に廃れた「教会旋法」と呼ばれる旧式の音楽理論なのである。
サティがこれを作曲した当時、音楽は長調・短調の全盛期であり、音楽家たちはむしろ余りにも使い込まれ馴染みすぎたそれらから脱却しようとしていた。
その結果、(後になって)十二音技法やらひたすら転調する音楽やら読めない楽譜やら、かの有名な4分33秒のような現代音楽と呼ばれるジャンルが発展していくわけなのだが、サティのこの「ジムノペディ」はむしろ長調や短調が発展する前の古代音楽にこそ解を求めた。

ただし、教会旋法はずっと前に廃れた旋法だ。廃れたのには廃れたなりの理由がある
それは、「解決感」が足りないということだ。ドレミファソラシドと来て、最後のシ→ドに至る「終わった!」という感じが、どうしても教会旋法だと薄い。これにはシ→ドが「半音差」であることが深く関係している。(短調についてはややこしいので深く触れないが、本来長調しか所有していないこの「半音差」を裏技的に獲得できたのが、短調の生き残った理由のひとつである。)
他にも和音的な理由などもあるが、とにかくこの「廃れていったなりの理由」を無視して単に古代音楽を復活させただけでは、ジムノペディの凄さは無かった。

サティは教会旋法を復活させるにあたって、現代のジャズやポップスにも通じる「セブンスコード」を混ぜ合わせたのだ。
セブンスコードとは、最も一般的で綺麗な和音であるドミソに、ドからみて七番目の音であるシ(またはシ♭)を加えたドミソシ(またはドミソシ♭)のようなコードのこと。(厳密にはドミソシのほうをメジャーセブンスといい、ドミソシ♭のほうをマイナーセブンスという。ジムノペディで主に使われているのはメジャーセブンス。)
このセブンスコードは、シとドが(オクターブ越しに)ぶつかり不協和音となるため、独特の不安感、緊張感、浮遊感と言える感覚をもたらす。この緊張感が「早く次の和音を聞かせてくれ!」という進行力を生み出すのだ。

セブンスコードを混ぜ合わせることで、教会旋法に足りなかった解決感が補強される。ジムノペディの冒頭では「ソシレファ#→レファ#ラド#」が繰り返されるが、これは互いが互いに相手の和音を解決している関係になっている。セブンスコードは緊張をもたらすが、その解決をしたと思ったら、解決している和音自身が即座に次の緊張を生み、また次の解決を求める。永久に緊張と解決の連鎖が繰り返されるのだ。一音引いてから和音の全体を弾くという曲構成も、この意図を増幅していると読み取れる。
これにプラスして、教会旋法の持つ独特の「収まりのつかなさ」、きっちりと着地して終わらない感じが見事に組み合わさり、曲全体がどこかふわふわとした雰囲気に包まれる。
つまり、セブンスコードは単に教会旋法の弱点を補ったにはとどまらず、その性質をむしろ長所に作り変える最高の相棒となったのだ。

セブンスコードは古典的なクラシック音楽の中でそれほど使われてきた和音ではなかった。しかし、シャンソンなどの庶民的な音楽では頻繁に使われていた。サティはシャンソンの伴奏をして生計を立てていたから、この発想に行き着いたのかもしれない。
主流の音楽からの脱却を目指すために、古代音楽に最新の庶民音楽を混ぜ合わせて復活させる。決して滅茶苦茶にするわけではなく、また無闇に過去を賛美するわけでもなく、離れすぎず、すがりすぎず。「現在」を打ち破ってたどり着いた、この「過去」と「未来」との繊細なバランスこそが、ジムノペディの一番の魅力だと思うのだ。



- 2 -
C#を知っているだろうか。
最も新しいプログラミング言語のひとつであり、様々な便利な機能を持つことで知られる。
その中でも特に新しく画期的な機能だともてはやされているのが「LINQ」だ。
コード中でSQLが書ける!などと言われているが、私はLINQの本質はそこにあるのではないと思っている。

話をわかりやすくする為に、xの5乗に2倍して1を足さなければいけないとする。
+や*(かける)の記号が使えれば簡単に書けるだろうが、それらは使えないものとしよう。かわりに足し算はAdd、掛け算はMultiply、累乗はPowという関数を使う。
まず、xを5乗するのは、

a = Pow(x, 5)


この結果を2倍するので、

b = Multiply(a, 2)


最後に1を足すと、

c = Add(b, 1)


となる。
3行も書いてしまった上に、aとbという完全に無駄な変数(途中経過のためだけにある変数)を用意する羽目になった。これを防ぐためには、上記の3行を1つにまとめて、

c = Add(Multiply(Pow(x, 5), 2), 1)


とすればよいが、これでは余りにもわかりにくい。クソコードだ。
これを、C#に用意されてる「拡張メソッド」という書き方を採用すると、次のように書ける。

c = x.Pow(5).Multiply(2).Add(1)


解説すると、x.Pow(5)というのは「xを5乗する」という意味で、Pow(x, 5)を変形しただけに過ぎない。これを次のMultiplyへ渡すことで、左から右へと滑らかに処理が書ける。最初に日本語で書いた要件と見比べてみてほしい。「xの5乗に2倍して1を足す」。上記の命令はこれをそのまま書いたに等しいということが直感的にわかるだろう。
このように、処理を左から右へ繋げていく書き方をメソッドチェインという。LINQが便利な機能であるのは、このメソッドチェインを利用できることが大きい。

ところで、今少し誤解を招きそうな説明をしてしまった。
拡張メソッドを用いたメソッドチェインがLINQなのかというと、実はそういうわけではない。確かに拡張メソッドはLINQの重要なパーツではある。しかしそれ以外に、インターフェイス、ジェネリック、デリゲート、ラムダ式というC#の機能があって、5つのパーツが合体ロボットのように組み合わさってLINQはできている。
これらの機能がC#のどのバージョンで出現したのか、表にまとめてみた。
バージョン機能参考にされた他言語
ver.1インターフェイスJavaなど
デリゲートC++(関数ポインタ)、Haskellなど
ver.2ジェネリックC++(テンプレート)、Javaなど
ver.3ラムダ式LISP、Schemeなど
拡張メソッド-
LINQ-


最後の行にLINQとあるが、これは新機能というより、5つのパーツを定義した結果として勝手に完成したと言った方が正確だろう。
このLINQ完成に向けて、C#は機能を積み上げてきたのではないかとすら思えるほどだ。

注目して欲しいのが、「参考にされた他言語」の欄である。
拡張メソッド以外のパーツは、特にC#に独自の機能と言うわけでもない。それぞれのパーツを少しずつ他言語から拝借し、融合させることによってC#独自の機能である「LINQ」が完成したのだ。
私にとってLINQの功績は、これらの機能ひとつひとつが持つ魅力を最大限に高めたことにあると思う。それらの魅力が、ひいてはLINQの魅力になっているのだ。斬新で独自的で何にも似ていない機能ではなく、むしろ過去の様々な機能を上手く未来の機能に仕立て上げたからこそ、C#はすごいと思う。



- 3 -
将棋のプロ棋士である藤井猛九段をご存知だろうか。
将棋には序盤の攻め方・守り方によって様々な戦法があるのだが、その中でも特に四間飛車という戦法を愛したのが藤井九段である。
彼は愛する四間飛車のために、「四間飛車藤井システム」と呼ばれる戦法を編み出した。

簡単に説明すると、戦法には相性がある。四間飛車は相手より先に王様を守れるので、相手からの速攻に強い。しかし、逆に攻め手には欠けるため、相手が攻撃を捨てて延々と防御に徹すれば、こちらからすることがない。そこで相手が穴熊と呼ばれる完全防御体勢を組んでから、余裕を持って攻めてくると、さすがに防御力の差で負けてしまう。四間飛車は速攻に強く、穴熊に弱い」。この先を読むに当たってこれだけは頭の片隅において欲しい。
藤井システムとは、穴熊戦法によって衰退しかけていた四間飛車を復活させる為に藤井九段が編み出した、「穴熊に対して積極的に攻撃していく」戦法である。

これが従来の四間飛車。
藤井システム1

これが藤井システム。
藤井システム2

藤井システムは、やはり「独創的」「画期的」「全く新しい考え方」との評価を受けている。
私は、「違う。いや、違わないけど、評価すべき部分はそこじゃない」といつも思う。
藤井システムは、四間飛車の「本来あるべきだった真の姿」を見つけ出したシステムだ。実際、ここが一番肝心だと思うのだが、従来の四間飛車と藤井システムは手の順番が入れ替わったに過ぎない。

両者とも、
角道を開ける→飛車を左に動かす→角道を止める
藤井システム3
の流れから始まり、

①王将を右に動かす→②金銀を配置する→③右端の歩を突く→
藤井システム4
④左辺の攻撃陣を整える→⑤右辺の歩を突く
藤井システム5
の順番におおむね進むのが従来の四間飛車で、この後は相手の攻めにカウンターしたり、防御陣を進化させたりする。

一方藤井システムの一例としては、
①右端の歩を突く→②金銀を配置する→
藤井システム6
③左辺の攻撃陣を整える→④右辺の歩を突く
藤井システム7
とした後で、⑤ようやく王将を右へ動かして従来の四間飛車に合流する。

元々四間飛車は、「相手の手を見ずに組める」というのが売りの戦法でもあった。相手がどんな手を指していても、基本的には淡々と自分の手を進めてよい。それなら、別に途中の順番を入れ替えたって構わないはずだ。
そもそも、相手と一手ずつ交互に指す将棋というゲームにおいて、相手の手を見なくてもよいなんて組み方は、自ら「相手の手」という情報量を捨てているに等しい。居飛車など他の戦法が相手の手を見ながら慎重に駒組みしている中、四間飛車だけが情報量を捨てていては、戦法としての力はその分落ちる。
藤井システムの真髄は、「相手の手を見ずに組める」四間飛車を、巧みに順番を入れ替えることによって「相手の手を見ながら組む」戦法に変化させたことだ。
先ほどの、「①端歩を突く→②金銀を配置する→③左辺の攻撃陣を整える→④右辺の歩を突く→⑤王将を右に動かす」という流れは、あくまで藤井システムの一例にすぎない。
もし、②までの段階で相手が速攻を仕掛けてくれば、③④を中止して即座に⑤を実行する。攻撃よりも防御を優先し従来通りのカウンター狙いに着地するわけだ。
そしてもし、相手が穴熊に組みかけていたら、⑤を中止し、藤井システムは攻撃フォームに移る。
これが、いわゆる藤井システムの有名な形だ。
藤井システム2

相手の穴熊はこちらから見て右のほうにあるので、右辺の(本来防御用の)駒を使って次々と攻めかかっていく。王将はむしろ戦場に近づかないよう、初期位置のまま動かさない。二枚の金と飛車の配置がその周りを硬く守る。
この独特な姿が見る者に鮮烈な印象を与え、「これが藤井システムか!」と感嘆させてしまうのだが、実はこれは四間飛車の「アタックモード」に過ぎない、と私は思う。

もし藤井システムが単に穴熊を崩すだけのシステムなら、今度は速攻に潰されて終わりだっただろう。そうなれば、速攻、従来の四間飛車、穴熊、藤井システムで4すくみになるだけだ。
藤井九段は従来の四間飛車を否定したわけではない。ただ、従来の四間飛車は、「ガードモード」しか使われてこなかったところに、彼が序盤の手順を見直すことによって「アタックモード」を掘り起こした。そうして従来の「ガードモード」と「アタックモード」を常に使い分けられるようにしたシステムこそが、藤井システムなのだ。

しかも、このアタックモードも、よく評されるような「防御をかなぐり捨てて攻撃力全振りにした姿」、というわけではない。右方向に攻めかかるに当たっては、この位置の王将に金と飛車はむしろ最高の防御陣と言える。
ガードモードとアタックモードのバランスにしても、アタックモードの中での攻撃と防御のバランスにしても、非常に繊細な綱渡りのような見事さがある。
自由自在な発想力、と評されることが多い藤井九段だが、むしろ繊細な計算と膨大な研究に裏打ちされたこのバランス感覚が、彼の何より偉大な才能ではないだろうか。



- 4 -
さて、ここまで全く関係の無い三つもの事柄をわざわざひとつの記事にした意味が、皆さんにはわかってもらえただろうか。
三つの発明には、共通点がある。それをネットなどでよく言われるような、「独創性」「突飛な発想力」と言う言葉で私は評したくはない。
私の言いたいことは、「温故知新」とか、「枯れた技術の水平思考」といった言葉で、巷には知られている。私はそれを、「過去思考と未来志向のバランス」と言う言葉で語りたい。
散々それぞれの例で語ってきたので、もう詳しくは説明しないが、「新しいものを生み出すっていうのは、こういうことなんだよ!」という心の叫びを受け取ってもらえたらなあと思う。
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「中世ヨーロッパ風の街並み」的描写に大賛成な私の意見

こちらを読んだ。

俺は、せっかくだから〈side ○○〉〈side out〉形式の小説を擁護するぜ - 『中世ヨーロッパ風の街並み』は究極の情景描写?

Question:“中世ヨーロッパ風の街並み”という描写はダメ(具体的には手抜き)なのか。
(略)
異世界小説のなかでも、情景描写ではなくストーリー展開や、キャラクターの心理描写などに重点を置く種類の小説であれば、街並み描写を『中世ヨーロッパ風の街並み』で済ませてしまうのは、手抜きではなくある種の見識である。
少なくとも『中世ヨーロッパ風の街並み』という“情景描写”があったからといって、それが単なる安易さを示すものだとは言い切れないし、作品全体の構成という視点から考えて、そのような“描写手法”がむしろ最善手である場合もある。



この方の意見には全面的に賛成である。
ところが、このエッセイに対して次のような反論のコメントがあった。

3人称の地の文で「その町並みは中世ヨーロッパ風だった」って書かれても、幅が広すぎて何も描写していないように思えます。
「石造りの建物が立ち並ぶ街並み」とか「赤いレンガで覆われた家々が軒を連ねる町」って書くと想像の幅が狭まって良いと思うのですが。



これを読んで、私は、「発想が全く違う」と驚いた。

私は、描写とは「想像の幅を狭める」ためにあるものではないと思っている。
仮に私が小説で、異世界の風景を「中世ヨーロッパ風の街並み」と描写したとして、読み手の頭にはどんな風景が浮かぶだろうか。
上記のコメントのように、石造りの家々かもしれない。赤レンガかもしれない。もしくはエーゲ海沿岸の、真っ白な大理石に囲われた風景かもしれない。
それぞれの読者の頭の中に、それぞれなりの「中世ヨーロッパ風」があり、その描写を読んだ時に想起するイメージも全く異なってくるのだろう。

だから駄目だ、と、コメントの方は言いたいのだろう。

だから良いのだ、と私は言いたい。

私は、読者の脳内に浮かぶ風景を、作者がひとつになるように制御する必要は全くなく、それどころか、制御してはいけないとさえ思っている。
作者の頭の中にある唯一の想像を、そのまま読者に転写することが小説だというわけではないはずだ。

街並みが赤レンガ造りであるか大理石造りであるかということに、ストーリー上重大な差異があるのだろうか。
あるのであれば、そこはきちんと描写しなければならない。
そうではなく、それが「中世ヨーロッパ風」であることこそが大事なのであれば、読者の脳内に浮かぶその「中世ヨーロッパ」を、むやみな描写で乱してはいけないと思っている。
読者それぞれの頭にあるそれぞれの「中世ヨーロッパ」の中で主人公達に冒険してもらうことこそが、その読者にとってもっとも面白く、効果的な読み方になるはずなのだから。

そう思ってしまうのは、私が「設定・ガジェット優先」(上記のエッセイに出てきた用語)の読み手兼書き手で、その中でも特にキャラとストーリーに偏重してしまうタイプだから、なのだろうか。
だとすると、「想像の幅が広がっていいと思う」というコメントした方は、どのような視点で、どのように小説を楽しもうとしている結果として、「描写は想像の幅を狭めるべきだ」と考えるに至ったのだろうか。
あまりにも違う考え方にぶつかってしまったので、せっかくだからその辺の感じ方を詳しく教えてほしかったりする。
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算数/数学の授業は、抽象化のステップアップである

数学というのは、「抽象化」の学問だ。
この辺は、たとえば大学で数学科に行ったような人間なら誰でも感覚的にわかっている。
逆に、これが掴めなかった生徒が数学嫌いになってしまうわけだが、さらにたちの悪いのは、教える側の人間ですらこのことを把握していないことだ。
教える側ともなれば、感覚的どころではなく、言語化できるくらいこの感覚を磨かなければならないと思う。それは、小学一年の「さんすう」から既に始まっている。小学校教師は特に、主に文系である教育学部や教育大学出身でないとなれないから、この辺の齟齬が大きいのだろう。
そこで今回、算数/数学という授業について思っていることを、「抽象化」を中心にすえてぶちまけてみる。

小学校入学前


そもそも「抽象化」というのは、人間が人間として生きていく根幹をなす能力である。
たとえば「いないいないばあ」という遊びがある。
ある段階までの赤ちゃんは、いないいないばあをすると本当にその人がいなくなってしまったように感じるという。しかし、生後7-9ヶ月で、赤ちゃんは「物の永続性」を理解し、「見えているお母さん」と「手で隠れているお母さん」が同一であることを知る。これは「お母さん」という存在・実体をある意味で抽象化したからであって、私はこれを人間が始めて獲得する抽象化能力だと考えている。
さらに約2歳になると、子供は「表象」という概念を獲得する。今見ている相手を言葉やイメージ、概念で理解し、後日になってそれを模倣したり、説明できるようになる。さらには記号などのシンボルを理解したり、おもちゃを使って遊んだりできるようになる。これらはまさに抽象化能力の訓練である。ひとつひとつの「具体的な実体」をそのまま飲み込むのではなく、いったん概念として切り分け、理解しなければこれらの遊びはできない。「自分ではない人間になりきる」ごっこ遊びなどは、とてもわかりやすい例だ。

ところでここで、既に算数の第一歩が現れている。
たとえば「つくえ」という言葉を子供が理解する。これは、自分の家のリビングにあるテーブルも、食堂にある食卓も、和室にあるこたつも、お母さんに連れて行かれた病院に置かれた机も、全て同じように「つくえ」と呼ぶことを理解したということだ。
何かしら天板が合って、それを足で支えていて、上に物を置いたり作業したりする物ならば、大きさや材質に関わらず「つくえ」なのだという概念を得たということだ。
まさにこれは算数、ひいては数学の考え方のもとになるものである。
ここまでさんざん「抽象化」という言葉を使ってきたが、ようするに今のように、様々な具体的なものを共通の概念に落とし込むことを「抽象化」と呼ぶのだ。
0.png


小学校1年生


ここで始めて、「数」という概念を習う。
「数」は、5-6歳の児童が習うとは思えないほど、高度に抽象化された概念だ。
先ほど「つくえ」の例で説明したように、子供はこの時点で、様々な「具体的実体」を共通するイメージに落とし込んで理解している。
材質や大きさに関わらずどんな机も「つくえ」だ。同じように、多少の色や形の違いに関わらずどんな林檎も「りんご」だ。言葉という抽象化は、ここまでで終わる。「つくえ」と「りんご」を一緒にすることはない。
しかし、「数」はそれらを、さらに共通するイメージに落とし込む。
数の考え方は、「つくえ」と「りんご」すら一緒にしてしまう。どちらも同じように、「ひとつの塊がある」という風にしかとらえない。このようにして「1」という数のイメージが取り出される。
そして、「ふたつのつくえ」と「ふたつのりんご」も一緒だ。どちらも「ふたつの何か」である。これを抽象化して、「2」という数が取り出される。
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考えてみれば、「2」などという名前の「物体」はどこにもない。「2」は概念の中にしかなくて、人間がふたつの机やふたつの林檎を見たときに、勝手に「2」という数を感じ取るだけだ。
そしてこの数という概念は、恐ろしい進化を遂げる。何も「ひとつの何か、ふたつの何か」という「塊的なイメージ」だけで済む問題ではない。糸を巻きつけて「1周、2周」と数えるのはどうだろうか。「1秒、2秒」はどうだろうか。果ては「1リットル、2リットル」なんてものも登場する。
「順番に区別することのできる何か」になら何にでも、数は広がってしまう。

この辺のことを、驚くべきことに子供たちは感覚的に理解してしまう。大半の子は。
しかし、この時点ではまだ具体物で考えないといけない子もいる。3人の男の子と2人の女の子、合わせて何人でしょうと言われて、実際に男の子と女の子を並べて数えなければわからないのが「数を抽象化できていない子」で、指を3本と2本折って数えられるのが「数の抽象化ができた子」で、3+2=5と何も使わずに計算できるのが「数のイメージが完璧に染み付いた子」である。
最終的には、全ての子供が最後の状態にならなければならないのだが、そうなれないまま次のステージに進まされてしまう子が存在する。これが悲劇の始まりだと思う。

小学4年生~6年生


子供達が算数で最初に躓くのが、「分数」の計算だ。
実は、この時点で、数のイメージを完璧につけていない子は、脱落してしまう。
抽象的な対象であるはずの「数」という存在を、ほとんど「具体物」のように身近に感じられる子だけが、次のステップへ進める。
たとえば、12÷3=4という式を見て、「12個のみかんを、3人に配ると、ひとりぶんは4つ」というような具体的イメージでしか捉えられないようではこの先が厳しいのだ。
いわゆる「できる」子は、4×3=12という式のイメージとともに、この式を見る。
2.png

そう、式のイメージ、だ。もはやそこにみかんもおはじきもない。
これができているかどうかで、分数の割り算に対する捉え方が違う。
たとえば、1/3÷1/2という式。これを、「常に具体化して理解する子」が見ると、「1/3個のみかんを、1/2人に分けると・・・?」となって、滅茶苦茶なイメージになる。
一方、「数を数のままで」捉えられている子は、1/3÷1/2=??×1/2=1/3と読み直せて、多少苦労はするものの、「1/2に何を掛ければ1/3になるだろうか。逆数である2を掛けるといったん1になる。だから、それと1/3を掛けて、2/3が答え」という教師の説明が飲み込めるのだ。

この辺り、指導要領などを見ると、常に具体的イメージに戻って理解させるようになどと書いてある。
確かに具体例は大事だ。大事だが、それに根っから寄りかかったような理解をさせることは危険でもある。
非常に残念なことだが、分数の割り算などをしている段階で、具体例に依拠しなければ理解できない子供は、はっきり言って手遅れなのである。
分数の計算が難しい、わからないと言う子は多い。ここで算数が駄目になったという大人も多い。だがそれは間違いだ。実は、小学校1年生以来ずっと訓練されてきた「数のイメージをつける」作業が遅れて、それが初めて限界を迎えるのが、分数という段階なのだ。
そういう子は、足し算引き算に掛け算、筆算など、順調に学びを進めているように見えていたかもしれない。それが突然分数で躓いたように見えるかもしれない。でも、本当は何も順調ではなかった。数のイメージをつけることなく、そこまで「進めてきてしまった」のが実情なのだ。それが初めて目に見える形で飛び出しただけなのである。いわば、分数の計算はそれができているかを確認する最初の試金石として働いてしまっている。

指導要領には、割り算を理解させる為に、包含除やら等分除やら、難しい言葉がさんざん並んでいる。それは割り算を具体的な形で理解させる為には確かに必要な概念だ。
しかし、忘れてはいけない。それはあくまで具体的に理解させるための方便だ。
割り算の本質は、「掛け算の逆演算」だ。それ以上でも以下でもない。包含除だの等分除だのとどれだけ並べようが、それを覆すことだけはできない。
そしてその本質を理解するには、具体例は、どちらかと言えば邪魔なくらいなのだ。
方便は使えばいい。具体例なしに割り算を理解させよなどと鬼みたいなことは言わない。むしろ必要だろう。しかし、いつまでもいつまでも具体例に頼ったままでは、いつまで経っても抽象化のステップを上がれない。算数を教える者は、具体例という呪縛から逃れる時機を、常にうかがっておかなければならないと思う。

中学1年生


このあたりで、「抽象化のステップアップ」という考え方が真に大事になってくる。
数学とは、抽象化のレベルを順次上げていく学問だ。ただ一回抽象化すれば終わりではない。一度抽象化したものをまた抽象化して、それをまた抽象化して……このように、数学という学問は続いていく。
しかしこれは中学1年で突然始まることでもない。
今までだって、抽象化のステップは順々に上がってきた。
最初は、様々な別の机を「つくえ」という言葉で表した。
次に、「つくえ」と「りんご」をまとめて数という考え方で表した。
そうすると今度は、「数そのもの」をイメージ化して掛け算や割り算を共通イメージに落とし込んだ。
中学では、これがもっともっとわかりやすい形で進むだけだ。
文字式である。
3.png

ここで大事なのが、文字式を学ぶに当たって、もはやりんごやみかんまで戻っている余裕はないということだ。
中学の教師も、よく、具体的に考えよう、と言う。しかしこの場合の「具体的」とは、決してりんごやみかんのことではない。xやyといった文字の中に、1や2といった具体的な数を入れましょうという意味だ。
ここではもはや、「数」は「具体物」であるかのように扱われる。これは非常に重要な点だ。抽象化の段階を登るためには、その時点で前回の抽象化の結果を、「具体的なもの」として受け入れている必要があるのだ。
割り算の式を与えられていちいちみかんを分けて考える者は、文字式の割り算を理解することはできないだろう。
前の抽象化段階を具体例として、それを足場に、新たな抽象化を獲得する。これが数学の基本的な流れなのだ。
だから、小学校の時点で数のイメージがつけられなかった生徒は、文字式で振り落とされてしまう。
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よく、数学は積み重ねの教科だといわれるのはそのためだ。
一回でも抽象化のステップアップをサボれば、絶対にその次のステップアップにたどり着けない。これが数学の難しい点である。

高校


もう、おわかりだろう。
高校数学を理解する、すなわち、高校における抽象化の段階を登るためには、中学時代の数学を足場にしなければならない。
もっとはっきり言えば、文字式を具体例として、関数を理解する必要があるということだ。
5.png
この時点で関数f(x)を理解するためにりんごやみかんに戻る者はもういないと思うが、だからと言って数式で戻るのも止めても、既に戻りすぎなのである。
本当は、文字式で踏みとどまらないといけない。文字式が具体例として運用できる頭にしておかねばならない。そのためのイメージを、中学時代につけておかなければならないのだ。

この先も、もし大学や大学院で数学を学ぶなら、まだまだ抽象化のステップは続いていく。足し算や掛け算などを「演算」という大きいくくりで見て研究する群論や環論があり、それら群や環をさらにまとめた圏があり、圏と圏の繋がりを調べる関手があり。私はこの辺でギブアップした。
もちろんここまで意識しろとは決して言わないが、少なくとも算数/数学を教えるに当たって、抽象化という考え方を全く把握していない教師は問題だろうと思える。
具体例はわかりやすいし、教えやすい。けれど、いつまでもそれに依拠する教え方は、いずれは抽象化のステップアップを迫られる児童・生徒たちにとっては結果的に害になるということを、どうかわかってほしい。
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なろうについて語る②好きなキャラについて

なろう小説のキャラについて語る。


以前、キャラクターのトリレンマの記事を書いた後で色々考えたのだが、やっぱり私はキャラクターには人間性を求めたいタイプの読み手みたいだ。
というのも、私がラノベヒロインのどういうところを好きになるかと言えば、ロリっぽさでも従順さでも貧乳でも青髪でもツインテールでもなく(これ全部実際に複数の友人たちから言われた言葉なのだが)、「主人公への信頼」をどれだけ感じるかということなのである。
ヒロインだけでもない。男キャラ、特に友人ポジションに対しての私の中での好感度も、主人公をどれだけ心から信頼しているかで決まっている。
そしてこれが一番大切なことなのだが、それは、「人間」でなければ出せない魅力なのだ。


具体的になろう小説のキャラで話をする。
私が最初に読んだなろう小説は「異世界迷宮で奴隷ハーレムを」だったという話を前回した。
この作品で「なろう」にハマることができたのは、実は、とあるキャラを好きになれたことが大きい。
隠すほどのことでも無いので言ってしまうと、そのキャラとは第二のヒロイン、セリーのことだ。
実は、第一のヒロインであるロクサーヌに対して、私はほとんど好感を抱いていない。
ロクサーヌは常に主人公に対して従順であり、ダンジョンでは常に先頭を進んで魔物の気配を察知し、バトルでは獅子奮迅の働きを挙げる。何かあればすぐに「さすがはご主人様です」と言う。主人公の性欲にも寛容で、そういう行為も喜んで受け入れる。あと巨乳である。
絵に描いたような素晴らしいヒロインだ。
だからこそ、私はロクサーヌが「絵に描いたヒロイン」以上には見えない。
主人公が何を言ってもただ粛々とそれに従うロボットであり、主人公のことが好きという設定を貼り付けられた人形、あるいはプロフィール帳、記号の塊である。
正直言って、それは作品タイトル通りの「奴隷」でしかない。
これなら、実はずっと主人公を欺いていて、おだて上げ、隙を見せる機会を狙っている、と言われたほうが幾分自然だ。そのほうがずっとずっと好感度が上がる。

一方セリーは、それほど主人公に従順というわけではない。
何事も自分の頭で考え行動し、主人公の言動に疑問は抱くし、態度もぎこちない。怯えるし、いじけることもある。性的な行為も嫌がってはいないが、歓迎しているわけでもない。
はっきり言えば、特段主人公に好意を抱いている様子が描かれない
ひとつの例として、この作品世界では、主人が死んだ時の奴隷の処遇を主人の「遺言」という形決められる。
ロクサーヌは自ら志願して、主人公が死んだ場合は後を追って死ぬという遺言を選んだ。

「ご主人様をお守りするのが私の役目です。何があっても、身を挺してでもご主人様をお守りしなければなりません。だから解放される理由はないのです。ご主人様が亡くなられるときは私の任務が失敗したときです。後を追うのも当然です。それに、ご主人様のいない世界で生きていたいとも思いません」


これに対しセリーは、遺言を自分で決めて良いと言われて、その場合は自分を解放してもらえるよう頼んだ。

「奴隷を相続させるようなおかたはおられないのですよね」
「いないな」
「そうですね。それでは、私に対する遺言は解放することにしていただきたいと思います」


この反応の差。これだけで、二人の主人公に対する想いの差が伝わってくるようだ。
この時点ではそう思えなくもない。

それでも私はセリーのほうに好感を持った。
なぜか。セリーのほうが圧倒的に、主人公を「信頼」しているからだ。
それは、主人公が魔物の攻撃で毒を負った場面に象徴されている。

 脳天にまで直撃する激震を耐える。それでも戦慄はとまらない。頭はボーっとして、熱にでも浮かされたような感じだ。 
「××」
 セリーが目の前に来て何か言った。もう何と言っているのかもよく分からない。全神経が衝撃を耐えることだけに集中している。他のことを考える余裕はない。
 セリーの顔が何故か迫ってきた。唇が押しつけられる。セリーの舌が動き、俺の口の中に入ってきた。


セリーは主人公が毒を負ったことを見抜き、自らの判断で毒消しを飲ませたのだ。しかも口移しで。
ロクサーヌだって毒を見抜けば、すぐにでも同じことをしただろう。
それでも、あえてセリーにその役を与えた作者に、GJと言わざるを得ない。
セリーはそれまで常に、主人公に何か命令されて動くという態度を徹底してきた。自らその命令について考え、疑問をさしはさんだりはするものの、自分の判断で勝手に行動したことはなかった。
キスも性行為も、主人公の要求に従うという形であって、ロクサーヌのように自ら歓迎したことはなかった。
それが、この時は命令を下す余裕の無い主人公に代わって自ら主人公を助けるための最適な行動を思考し、一も二も無く駆けつけて、勝手に実行に移したのだ。
正直、この行動は読み手としては意外だった。
死んだら解放されるのだから、積極的に助ける理由が無い。
何より、セリーは奴隷としてそれほど主人を愛していないと思っていた。
それがこの行動ではっきりわかったのだ。少なくともセリーは主人公を「信頼」していると。
ロクサーヌのように、「主人公大好き」という記号を貼り付けられた「人形としての妄信」ではない。自らの頭で考えたうえで、この人に付いていきたいというような「人間としての信頼」を読み取ることが出来た。


こういうのに弱いのだ、私は。
どこへでも行ける人間が、いつでも簡単に離れられる人間が、自分ひとりで自分のことができる人間が、それでも自らの意志で主人公に付き従うというのが愛しくてたまらない。
「記号」には、その魅力は出せない。
だから私は「人間」を描いて欲しいとずっと言い続けているのだ。

そして、これが今回一番言いたいことなのだが。
「なろう」小説には、意外に「人間」が描かれている。
と言っても全てのキャラではない。ヒロインが5人くらいいたら、そのうちの1人が当てはまると言う感じだ。まさにセリーのように。
どうも「なろう」のテンプレの中にはヒロインの順番みたいなものも含まれているらしい。メインヒロインが従順好き好き系なら、次のヒロインは深い思考ができる賢い少女という風に決まっているみたいなのだ。
私はこの風潮に希望を感じずにはいられない。
とはいえ、5人いたら最低2人はそういうヒロインが欲しいと思うのだけれど。


それとヒロインに言いたいのは、「主人公に『反対する』視点を持ちえてほしい」ということだ。
先ほども言ったが、私は主人公から「離れて行ける」人間が「それでも離れていかない」というのが好きだ。だから、この「離れて行ける」という前提をきちんと描いておいてほしいのだ。
主人公が過ちを犯した時に、毅然として「それは間違っている」と指摘し、正しい方向へ導いてやれるヒロインが「なろう」に何人いるだろうか。
あるいは主人公と意見が合わないとき、一時的にでも一行を離脱できるヒロインが何人いるだろうか。
これは男友達ポジションでも同じなわけだが、是非そういうキャラが、それでも主人公を信頼しているという構図を描いて欲しいと思う。


さて、ここからは私が個人的に気に入った「なろう」小説のキャラについて話す。
(先ほどのセリーのような個別具体的な話が続くので、さっきのに疲れた方はこの先を読まない方がいいかもしれません。)

そのいち。
「僕は祖父の後継者に選ばれました。」の相坂しとら
この小説は、異世界転生やトリップではなく、現代日本を舞台にした「なろう」では異色のストーリーだ。(ランキング圏外を漁るとこういった作品は山ほど出てくる。「スコップ」と言うのだが、それについてはまた機会があれば。)
ただし、現代日本と言っても、様々な不思議な能力が登場し、一般人の主人公がそういった異能力を持つヒロインを味方につけていくことでストーリーが展開する。
その中の二人目(また!)のヒロインが相坂しとらだ。
しとらの魅力のひとつは、そのずば抜けた強さだ。他のヒロイン達の誰も敵わない、圧倒的な能力を持っている。

「たしかに、七倉菜摘は天才だと言わなければなりません。わたしも、同じくらいの年齢で菜摘ほど強い異能の使い手とは会ったことがありません。でも今はまだ、わたしと菜摘では勝ち負けにもなりません。わたしのほうがはっきり上です」


本来ならば、能力も持たない一般人の主人公が敵う相手では無い。しかし、しとらは主人公に能力の一端を解き明かされて以来、付き従うように主人公のそばにいる。
それは決して、盲目に主人公を崇拝しているわけではない。主人公が能力に巻き込まれるたびに、しとらは怒り、苦言を呈し、それで最後には手助けしてくれる。

「聡太がおかしいからです。理由はそれでもう充分です! 憶測なら既にいくつかあります。御子神叶は賭けをする能力を持っている。聡太がそれに負けたからおかしくなった。それがいちばん考えられるに違いないのですっ」


なぜ彼女がそれほど主人公を気にかけてくれるのか、それははっきりとは描かれない。曖昧に、複雑に、彼女の心情は幾重にも隠蔽されて表現される。
それがいいのだ。それくらいよくわからない方がむしろリアリティがある。
それでもよく読みかえすと、ちゃんと奥底の心情が読めてくるのがまた素晴らしい。
心情は複雑に描かれるほど、それを一つずつ解くたび、まるで本物の人間を相手にしているように見えるのだ。それがそのキャラの可愛さや愛しさを倍増させるのだと思う。

そのに。
「異世界詐欺師のなんちゃって経営術」のオオバ・ヤシロ
驚く無かれ。主人公である。
「なろう」小説において主人公が魅力的だというのは珍しい。それは、大抵の主人公がただ地球から転生しただけの、設定も背景も無い影絵に過ぎないからである。
この作品の主人公ヤシロは、地球でどんな生活を送ってきたか、どんな過去があって、どんなトラウマがあって、だからどんな行動がしたいのか、それらが事細かに設定されている。
ヤシロは元詐欺師である。
両親は幼い頃に他界し、人の良い伯父と伯母に拾われ、育てられた。
彼らはヤシロに対する善意につけ込まれて詐欺にひっかかり、借金を抱えて、自殺した。
やがてヤシロは詐欺師になり、大型の詐欺組織を潰した後、逆恨みで腹を刺され、死んだ。
そして異世界へと転生する。
トラックに轢かれるようなよくある転生ものとは一線を画す始まりだ。
彼はそのトラウマのため、「身を犠牲にする善意」を非常に嫌う。だが、基本的には善人であり、純朴な仲間に囲まれて心を取り戻すうち、自分の気持ちとトラウマの間で揺れ動くのだ。
彼は、単純に仲間を助けるだけなのに、無理にでも自分の懐に利益が入るように計算してしまう。本当に、本当に微小な利益を。

ふっふっふっ……またしても俺は、他人の持ち物で自分の利益を得るシステムを組み上げたのだ。
どーだ! すげぇーだろー!


ただ、これはヤシロへの献身的な善意から破滅した伯父・伯母の自殺した姿が忘れられず、「他人の為に身を粉にしてはならない」という自戒が刻み付けられているため。
素晴らしいのが、主人公と悪態を付き合う仲にある二人目(またまた!)のヒロインで、彼女はヤシロの出自を知らないにもかかわらず、彼の屈折した精神構造を看破し、利益が手に入ったと喜ぶ彼にこう言うのだ。

「善行に理由づけするのも、大変だよね」


私はこの台詞を読んで震えた。
「なろう」に、こんな台詞を吐けるヒロインがちゃんといたとは。
主人公も人間であり、ヒロインもまた人間であったからこそ、この台詞が成立したのだと私は思う。


色々と語ってきたが、要するに、私の言いたいことは「サトシのピカチュウ」なのだ。
ポケモンは、モンスターボールで捕獲されるとトレーナーの言うことを聞かざるを得なくなる。しかしピカチュウはモンスターボールに入っていない。
つまりピカチュウは手続き上「サトシの手持ちポケモン」ではなく、いつでも逃げ出すことが出来る。
それでもピカチュウはサトシのポケモンとして、活躍し続けている。
要するにそういうことなのだ。私の理想というのは。

以前、私は「自我が薄そうな女の子(キャラ)が好きだよね」と言われた。
ここまで読んできてもらえたならわかると思うが、とんでもない!
自我がない女の子は、サトシのクラブと一緒だ。そんなものに魅力を感じることは出来ない。
私は、自我がはっきりくっきりある女の子が、そのはっきりくっきりした自我を自ら主人公に捧ぐ過程がどうしようもなく好きなのだ。
そこだけは勘違いしないでいただきたい。


次回がもしあれば、「なろう」であのようなテンプレが成立した背景について語りたい。
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